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喝を入れられたいのではなく、具体的な解決策を求めている

こんにちは、こんばんは。

人は変わりたいと思ったとき、どうしたら変われるか考えると思います。考えた末に、変わるための情報を手に入れようと、検索窓に教えを乞うこともあるでしょう。

変わりたいと思った時に目に付く情報は、何かを批判して、それをバネにするようなものが目立ちます。コンプレックスを指摘して、火をつけて、飛び込ませようとするようなもの。

必要性を感じさせて飛び込ませる。それを促すものが広告です、広告としてはひとつの正解です。でも、でもね。

わたしもかつては、影響力のある人の発信に刺激をもらっていました。でも、そうった発信を見るのに疲れてふと気づきました。感情を刺激して、混乱させられているのだと。

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○○するだけ、という書き方は、往々にして危険をはらんでいますよね。どこかに無理があるというか、誇張表現になっているというか。

寝て待つだけ。これはさすがに嘘だと分かる。
飲んで寝るだけ。これもちょっと怪しい。
じゃあ、「継続するだけ」は?

よく見かけますよね。そして信じてしまう。

継続って、「だけ」ではないんですよ。継続するために、時間を作ったり、欲を絶ったり、いろいろなことをしています。

継続は素晴らしいと思います。でも、継続できない人を煽り、喝を入れるような発信を目にすることが増えたような気がします。

「するだけ」というのは往々にして、ちょっと無責任な言い方なのではないかと思いました。

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というのも。

いま、『スタンフォードの自分を変える教室』を読んでいます。まだまだ前半、第2章までしか読んでいないのですが、すでになかなか濃い内容です。

この本の冒頭では、人間はどうして欲求に負けてしまうのか、その理由が事細かに説明されています。

欲求に負けてしまう理由を理解したら、「人間、喝を入れたからと言ってどうにかなるものじゃないな」なんてことを思いました。

「○○するだけ、だから頑張れ」というアドバイスも、喝に近いものがあると思います。具体的な方法を教えてもらわず、それでも頑張れる人ばかりではありません。

楽器をやっているわたし自身も、大学の後輩に対して「速度をゆっくりにして、こつこつ練習するだけ」というアドバイスをしたことがありました。でも、ゆっくりこつこつ練習することもできない、楽器の音を鳴らすだけで涙が出るような状態になったとき、後輩に対して言ったそのアドバイスが自分を苦しめました。

「だけ」が、できない。そんな自分なんて。

結局わたしに必要だったのは、うつの治療でした。薬を飲んだり、カウンセリングに通ったりして、治療をしました。うつが回復したら、そこそこ楽器も演奏できるようになりました。

人の抱えている問題は複雑です。だから「だけ」じゃないんです。「だけ」なのは、あくまで自分の場合。

他人のすべてを理解することはできません。でも、相手は自分と違う、という可能性を、頭の隅に置いておくことはできます。

あなたはどうしたいですか? わたしは「人間は違う」ということを、いつでも思い出せるようにしたいと思います。今はまだ、理想ですけど。おやすみなさい。