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僕が『俳句』を推す理由

毎度どうもです。笹井響己です。
今回は、僕の趣味である『俳句』についてのお話です。

2020年10月から始めて、気づけば8ヶ月が経ち、合計で55句の俳句を詠んでいました。今の僕にとって『俳句』というのは"ただの趣味"というカテゴライズには留まらない、もはや自分の"アイデンティティ"とも言える存在になっています。

なので今、自分が『俳句』に惹かれている理由を紐解こうとする行為は「自分自身」を理解しようとする行為に繋がると思うのです。それがこのnoteを書こうと思った一番の動機。また、ここで今一度『俳句』が持つ魅力を再認識しておきたいなと。そんなわけでココに書き記していこうと思います。

『俳句』とは?


まずは俳句の定義について。ある辞典では

5・7・5の3句17音からなる定型詩で季題によって自然の風物、人事をよむ。(百科事典マイペディア)

とあります。ただし、無季語や非定型自由律の俳句も存在しているため、明確な定義はできないと言えます。また「川柳」との対比で捉えるのも理解しやすいのではと思っていて、季語や切れ字の有無、主が文語か口語かという形式面での違いから俳句を捉えるのも一つでしょう。今回、僕が捉えている『俳句』は上記辞典で示した定義に則っています。

僕が思う『俳句』の魅力


ここでは僕が思う『俳句』の魅力を2つ、ご紹介したいと思います。ここに書くことがまさに、自分が『俳句』に惹かれた理由になると思います。

①あらゆる物事への教養が深まる

俳句をしていく上での醍醐味の一つにあるのは、自身が伝えたいことを「17音」に収めなくてはならない、という"制約"があることで必要になってくる"言葉の選出"です。この工程がとても難しいんです。だからこそ面白いんですが。。「この言葉から伝えたいことを連想してもらえるだろうか?表現できているだろうか?」と試行錯誤するということは当然、その言葉にまつわる知識の理解を深めることになります。よってその過程で獲得する教養というのは、好奇心旺盛な僕にとっては"恩恵"以外のなにものでもなく、大きな魅力の一つとなっています。


②日常のあらゆる場面に目を向けるようになることで、日常の見え方や感じ方が変わる。

僕にとっての最大の魅力がこれです。

俳句を始めると、毎日が楽しくなります。日々起こること、出会うものすべてが「俳句のタネ」になって、人生から「退屈」という言葉がなくなるのです。「暇だ」とか「つまらない」なんて時間は、どこかに吹き飛んでしまいます。
(「夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業」より参照)

そもそも『日常』って何なのでしょうか?何をもって『日常』というのでしょうか?僕は『日常は非日常である』という考え方を持っていて、日の常というものは決して全て"同一的"なものではなく、微量なれど必ず何かしらの"変化"があるものなのではと思っています。日常というのは本質的には"諸行無常"な概念であって、それを同一的に捉えるか変化的に捉えるかはその人の考え方に起因するのではないかと思うのです。そんな『日常』という概念に対する懐疑を持つことが『俳句』を始めていく上での出発点になるのでは、とも思っていたりします。

ただ、人間って"恒常性"を持つ生き物だと思っていて、ゆえに『日常』という空間の中で起きる種々の変化を見つけ出すというのは至極簡単なことではないと思うんですよね。。ですが、だからこそ、このような習性を捉え、日常の中の非日常を探し、そこに楽しみや幸せを見出せる、という人は強い。そしてまさにその行為を実現させてくれる一つの"お助けツール"として『俳句』を捉えることができるのではないかと、僕はそう思うのです。

『日の常』が全て「俳句のタネ」になることによって、日常の中に非日常を見つけようとする姿勢を身につけることができたのです。その姿勢が身に付いたことによって、日常の見え方・感じ方・過ごし方に変化が起きました。中でも特に大きかったのは"自然"の認知です。空には表情があって、月は満ち欠けをし、道端には花が咲いていて、夜には虫が鳴いていた。『日の常』に「変化」は既に起きていて、ただ自分がそれに気づけなかっただけなんだと気づいたとき、悔しさと嬉しさが同時に自分の中に生じたことを覚えています。『俳句』によって新しいスタンスが生まれ、それが結果として自分の『日常』の"解像度"を上げてくれたのです。この感覚が自分にはドンピシャだったのです。

かくして季節の「変化」を楽しむ俳句というものは、僕の好奇心をくすぐり、僕の幸せの価値観を体現するものとして現れたのです。ほんとうに、出会ってくれて、ありがとう。

それらを踏まえて今、基本的に僕が『俳句』を詠みたい!と思う基準としてあるのは「刹那の感情の揺らぎ」です。その揺らぎには大小など関係なく。むしろ小さな小さな感情の揺らぎを捉えることこそ醍醐味なのです。また、それによって普段から敏感に揺らげるような"感性アンテナ"を磨いておこうという姿勢も手にできるのも大きい。僕は『俳句』というものを、その時その時に生じた感情を残し、いつでも思い出させてくれる、いわば"日記"として捉え、自分の中に取り込んでいます。

これからの自分と『俳句』


自分と『俳句』との現在の関係性を捉えられたので、最後に、今後の自分と『俳句』の付き合い方について綴り、締めにしようと思います。

①「句集」の制作

「句集」についてはココにもあるように既に一つ作っていて、30句毎に今後も作っていこうと思っています。ただ詠むだけではなく、同時にその時の想いや背景も記して残しておきたい。「日記まとめ」としての句集。そのような形で今後も「句集」を作っていければなと思っております。欲しい!という方はいつでもご連絡くださいませ。


②俳句の歴史、俳人の俳句を見る

俳句を始めて8ヶ月、僕の俳句における知識というのは毎週のプレバトを観るのと、夏井先生の本一冊を読んだぐらいで、THE未熟と言えます。なので今後は『俳句』の歴史について学んだり、その上で代表的な俳人の作品について触れていったりと、もっと『俳句』自体に触れる機会を増やしていきたいなと考えています。世の俳人達は『日の常』をどのような視点で、どのように表現していたのか。そんなことを頭の片隅に置きながら見ていければと思います。ワクワク。


いかがだったでしょうか。以上が僕が『俳句』を推す理由です。『俳句』を始めたことで「俳句って高尚な人がやるもの?」「年配の人の趣味?」というイメージが崩壊しました。そうではなく、『俳句』というものは、ルールさえ知れば、誰でもいつからでも始めることができます。そしてそれをすることによる"恩恵"は絶大なものであると、そう僕は断言しておきます。


俳句、楽しいですよお。
良かったら一句、詠んでみませんか?

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