見出し画像

お笑いに批評は不要か?〜2018年M-1グランプリについて

 とにかく全組おもしろかった。

今日のお話
・全体的な感想
・「批評」の年
・立川志らくの是非
・新しい「おもしろい」に向かって

全体的な感想

 優勝した霜降り明星の漫才は、ゼロ年代後半以降にスタンダードになってきた型の発展系だと思った。ナイツやNONSTYLEの「ボケの手数」が多い構成は単純に笑うべきところが多いため、ウケが調子により下ブレすることのないディフェンスの強い芸風なのだけれど、もちろんそれだけでは「おもしろい」漫才にならないんだとおもう。たとえばナイツであれば、固有名詞を使用した大量の小ボケで話題を縦横無尽に張り巡らせ、従来結びつきようのないワードを接近させることで立体感のある話芸に昇華させている。
 霜降り明星は手数が多く、それはもちろん「ボケが多い」ということでもあるのだけど、このコンビについては「ツッコミが多い」という印象があり、ここに新しさを感じた。近年の笑いの潮流である豊富なボキャブラリーを駆使したツッコミだけれど、4分という短時間にぎゅっと圧縮させ大量に畳み掛けることで見せられる情景はまさに百花繚乱で、ボケのひとつひとつに丁寧に色を与えている。
 せいやのボケの瞬発力、粗品のしなやかな言語感覚、そしてこのふたりだけが作れる漫才のテンポにより極めて上質な話芸として洗練されたネタを2つ見れてとてもしあわせだった。優勝という結果になったのはとてもうれしい。

 とはいえ、最終決戦のネタを見終わった段階で個人的に優勝するのではないかと思ったのは、惜しくも3年連続の準優勝となった和牛だった。
 和牛は2本とも霜降り明星とは対照的に「大ボケで決めにいく」というネタで勝負していたのだが、ネタ順10番目で登場してハードルが極めて高いシチュエーションでこうしたネタで勝負できるネタへの絶対的な自信に感動した。手数が少ないのはウケの安定性は落ちるのだけど、和牛はピークの笑いを武器にするからこそ「一発で跳ねる」ための準備を周到に行なっている。ただ大きな笑いをとるのではなく「このボケ・このツッコミでどの程度の笑いを作るか」をかなり細かく調整した丁寧なネタ構成であり、そうした構造美が「品」として舞台上で映えているように感じられた。

 ラストイヤーのジャルジャルは、1本目のネタ「国名分けっこ」はこの日のすべてのネタのなかで、ぼくにとってはダントツで一番おもしろかった。ほんとうに素晴らしい。それしかいえないような興奮がいまでも残っている。
 何もないところに、誰にも詳細がわからない途方も無い世界を構築するその技量と、ノスタルジックな想像力に圧倒された。わかりやすいボケ、豊富なボキャブラリーのツッコミ、そういうものを排除したふたりの漫才には「世界」しかなく、その一途さが「漫才とはこういうもの」という固定観念を軽々と超えている。オール巨人が「漫才とは批評するものではない」と前置きしながら、技術的な検討の不可能性を経由して「おもしろかった」といったことに大きな感動を覚えた。

 上位3組はどのコンビが優勝しても文句ない完成度だったけれど、その他のコンビも決して劣っていない。やはりM-1という特殊な競技のなかだからこその向き不向きはあり、それを顕著に感じたのがギャロップだ。
 ネタ自体に新規性はないように見えるけれど、そこにオリジナリティがないわけじゃなかった。「おっさんの安定感」だからこその安心して聞ける優しい漫才で、長く聞いていることができる心地よさがある。しかしその心地よさが多分「M-1向き」じゃなくて寄席向けなのかもしれない。
 大会全体として「箸休め」のような働きになったのだけれど、こうしたいぶし銀の芸人の働きももっと注目してもらいたいと思った。彼らがいるからこそ、他の華やかな漫才が映えた。

 敗者復活から上がってきたミキのネタは、ギャロップと対照的な漫才だった。とにかくミキはトップギアの笑いに持っていく瞬発力が高く、そしてトップギアの状態からとにかく手数が多い。これは最初に触れたゼロ年代後半に定着した漫才の文脈にある構成だとおもう。しかしミキの場合、最初に「上がりすぎてしまう」ため最初から最後までとにかくおもしろいのだけど、その「ずっとおもしろい」のがしんどいのも否めない。難しい話なのだけれど、それがオール巨人のいう「やかましく聞こえる」かもしれなかった。

 ミキに僅差で敗れたかまいたちは、個人的に非常におもしろく観た。山内の偏執的な屁理屈が会話の軸をへし折り、しどろもどろに言い返す濱家のことばがボケに転移し、山内の神経質で目ざとい分析眼がキレの良いツッコミにすり替わってしまう仕掛けは芸術的とでも言いたくなるような美しさがある。山内・濱家の両方がボケもツッコミもできるからこそ、こうした柔軟なネタを違和感なく行えるのだとおもう。

 スーパーマラドーナもまたサイコ的なキャラクターを使ったネタだった。こちらはホラー要素も強く、笑いの作り方に技量が求められる難しいネタだったけれど、互いのキャラクターにおける「こわさ」とそこズレを使った秀逸な構成。
 論点はやっぱり「サイコ」になると思うけれど、田中の「くだらなさ」に猟奇的なものを感じられたら……とおもったが、それによって「笑いにくくなる」ことも懸念される。こうした難しいネタでラストイヤーの勝負をかけたことに、表現者としての強い意志と誇りを感じた。

 悔しい結果になったのがゆにばーすだった。
 ゆったりしたツカミから徐々に川瀬名人の「キレ」で牽引する芸風ということもあり、序盤の構成が勝負の分かれ目になるのたけど、そこに失敗したのが悔やまれる。前回は川瀬名人の「キレ」のエンジンをかけるタイミングの良さ、そしてその馬力に強く惹かれたけれど、今回ははらの器用さが見れてよかった。もっともっと多彩なネタができる懐の広さを感じた。

 結成12年で悲願の初の決勝進出となった見取り図はトップバッター特有の空気の重さのなか、きっちりと決めるとことを決めていたのがよかった。審査員の指摘にもあった序盤の古臭さで空気がなかなか動かなかったけれど、「マルコ牧師」の時間差ツッコミがその重たい空気をしっかりと動かした。この重たいものを動かしたような、ゴツゴツした手触りがよかった。

 今回一番のダークホースとなったのがトム・ブラウンだった。まずM-1で「ナカジマックス」が観れたということにただただ感動してしまった。想像力だけを武器にしたような野蛮さがあって、おもしろいとおもったことをおもしろいとおもったそのままに人前に見せるという純粋さが観ていて嬉しくなる。
「なにがおもしろいのかわからないけどおもしろい」という点でジャルジャルと被るところがあり、そうしたときに相対的に弱く見えるかもしれない。ジャルジャルは想像力の世界を構成と演技において高度な技術で徹底的に作りこみ「芸」までに洗練しているが、トムブラは想像力に頼りすぎてる印象がある。だけどこの原始的なおもしろさが変に丸くなって欲しくないとも強く感じる。とにかくおもしろかった。

「批評」の年

 決勝は去年並のクオリティの高い水準であるなか、今年目立ったのは「審査員による批評」だった。審査員の数は昨年と同じ7名だが、ネタ終了後の審査員コメントに当てられた時間が(おそらく)長く、また審査員はボケを抑えた批評的視点からのコメントがほとんどだった。
 そのなかでも特に存在感を出していたのがナイツ塙だった。かれは特にネタの構造についての言及が多く、「このネタがどういう作りをしているのか」を的確に紐解きながら、「おもしろい」の仕組みを吟味するような審査を行なっていたように見えた。かれの働きにより、漫才を素朴な「笑い」としてだけでなく、「芸」の奥深さがいっそう現れた大会になったとおもう。

 しかしながら、「批評」は一般的にあまり良い印象を持っていないこともまた事実だ。ナイツ塙個人への批判は見当たらなかったけれど、今回の批評重視の審査員コメントに対してあまりよく思わなかった層もやはり多数いて、「演技を終えた芸人を公開処刑にしている」「おもしろいかおもしろくないか、それだけでいいじゃないか」という意見もTwitterには多かった。
 これについて意見が割れるのは当然といえば当然なのだけど、批評を大事にしたいとおもうぼくにとって、こうしたリアクションはけっこうかなしい。

立川志らくの是非

 今回特に物議を醸したのが立川志らくの審査である。最初に結論をいうと、ぼくは落語家らしい視点の重要な示唆に富んだ優れた批評だと感じた。

 特に批判を集めたのがジャルジャルに対して99点をつけながら「ひとつも笑えなかった」と発言したことだ。立川志らくのこの発言は、「だけどものすごいおもしろかった。これがプロの芸人を笑わせる芸なのかと感心した」と続く。
 ジャルジャルのこのネタについて、続いてオール巨人が技術的に検討しようとしながらも「わけがわからないがおもしろかった」という結論に達するコメントをするのだが、おそらくオール巨人と立川志らくが感じたものはほとんど同じものだったのではないだろうか。「ドネシア」や「ゼンチン」というおそらく大半の日本人が人生で一度も発声したことのない文字列で笑うという不可解な現象との遭遇は、これまでの「笑い」の文脈での理解を超えている。その新たな「おもしろい」かたちが「芸」として提示されたことに対する感動は、おそらく芸を深めるほどに大きいのだろう。
 ジャルジャルへの評価と対照的なのがかまいたちへの「うまさを感じすぎた」というものだ。「技術が高すぎるがゆえのいやらしさ」みたいなものは、芸事に限らず文章の世界でもでもよく言われる。ここでいうところの技術は「理解可能なもの」であり、理解可能というのは乱暴な言い方をあえてすると「練習すれば(誰でも)できる」ということになる。芸や表現というものの鑑賞において、おそらく期待されるのは努力ではないく「才能」としか言いようのない不可解なもので、少なくともぼくはそうだ。ぼくはかまいたちのネタは非常に好きだったけれど、立川志らくの評価により身につまされるものを感じずにはいられなかった。

新しい「おもしろい」に向かって

 M-1は中学生のときのぼくに「どうして漫才がおもしろいのか」みたいなことを考えるおもしろさを教えてくれた番組で、点数を記名でつけるからこそ審査員の振る舞いに常に説明責任が生じるという特徴があった。
 M-1で優勝することの意味がいまや芸人人生を大きく左右してしまうからこそ、審査員には妥協が許されない。そういう緊張感のなかで果たされる演者と審査員の約束が批評でありこういう視点でお笑いをみれる機会はまず存在しない。
 こうした特殊な状況のなかで生まれる演者と審査員の共闘が、「おもしろいってなに?」という問いにぼくら素人視聴者にも触れるようにしてくれている。笑いが文化になる瞬間として、今回みたいな腰を据えた真摯な態度の講評は次回以降も続けて欲しい。

この記事が参加している募集

頂いたご支援は、コラムや実作・翻訳の執筆のための書籍費や取材・打ち合わせなどの経費として使わせていただきます。