学校の構造に対する素人の考察

最近「構造と力」を読み始めた。まだ1部(1章と2章)しか読めていないが、そこまでで考えたことが忘れてしまいそうなため、ある種の備忘録として書かせていただく。また、私は一塊のエンジニアであり、教育や哲学に対して専門的に勉強していないため、誤りが有るようでしたらコメントで指摘していただけると助かります。

大学や高校は義務教育ではないためさては置いておいて、学校の構造は近代社会の構造をしていないのではないかと考えた。つまり、レヴィ・ストロースの言う冷たい社会ではないのかと考えられないか。

教師と生徒は教える側と教えられる側という立ち位置が変わらない、つまりスタティックなヒエラルキーを構成している象徴秩序であると言えるだろう。しかし、この教師と生徒の関係にはカオスの侵入が起きることもある。常に生徒は教師の言う事を聞くわけではない、宿題をやってこなかったり、授業中に寝たり、喋ったりして話を聞かなかったりする。それは勿論、学校のシステムが自然な秩序を成していないが故である。

著作ではこのカオスの侵入を処理するために祝祭が行われると書かれているが、果たして学校の場合は何にあたるのだろうか。私が最初に思ったのは合唱コンクールである。合唱コンクールに向けた練習の中盤に音楽の先生ないし生徒の中でのリーダーが真面目にやれと怒り出したり泣き出したりする、あの瞬間こそ通過儀礼では無いだろうか。合唱という秩序に反発する生徒たちの否定性に対して、あの儀式を行うことでいつの間にやら合唱に対して真面目に行うという秩序が再編されているのだ。これが学校のあるあるとして通用するのであるから、普遍的な通過儀礼と言えるのでは無いだろうか。先生が怒って職員室に戻るというのも同じく祝祭であろう。生徒が呼びに行くことで、生徒が下手に出ざるを得ず、改めて教師と生徒の上下関係が再構築されるのだ。

近代は熱い社会であるとすれば、この学校というシステムは時代遅れと言えるだろう。ただし、教育業界も次第に脱コード化の波に乗りつつある。その一つとして挙げられるのがアクティブラーニングだろう。ここでは教師が生徒に教えるという上下のスタティックな構造から、生徒が自主的に勉強するのを教師が手伝うという、生徒の要望によって教師の存在が見え隠れするようなダイナミックな構造に切り替わっているといえるだろう。

しかし、私はこの近代化に対して大いに懸念している。それは教育課程修了というゴールに向かって一様に前進運動し続けるというこの構造、それは質というよりも如何にゴールに速くたどり着くかという競争に、子供たちを放り込むべきなのかという不安である。上の例えであれば、アクティブラーニングのような生徒の自主性によるものは、勉強へのやる気によって学力差ができてしまうという問題点もあるだろう。ただそれよりも問題なのはコンピュータがどんどん扱える情報量を増やしていく中、それに追いつこうとやっきになり、タイムパフォーマンスだなんだと言って無理くり脱コード化し暴飲暴食する有り様を見て、子供たちを送り込むのは問題ないのだろうか。

アクティブラーニングを差っ引いても近代化は抑えきれないだろう。スマートフォンという片手に収まる情報量の塊は、教師と生徒の上下関係を切り崩し、前進運動の真っ只中に放り込まれる。この運動から逃れるには、情報処理スピードの跳ね上がっているコンピュータの真似をやめて新しい道を模索する、脱機械によるヒューマニズムの再構築という現代社会からの脱構築が必要なのかもしれない。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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