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グリーフ哲学をー身体と広さと

ご無沙汰しています。暑い中にも、空の青さに秋を感じる季節になりました。

夫が亡くなって2年目で引っ越しをしたときのことを思い出します。残暑
厳しいこの季節のことでした。いろいろとあって、一人で住むのに十分な広さのところに引っ越すので、夫のものをほとんど処分しなければなりませんでした。しかも、短期間に。

書籍、服、書類や、訳の分からない数式やらを無茶苦茶丁寧に書き込んだ何十冊ものノートやら。その数は膨大で、特に書類などは㊙扱いのモノを家に持ち帰ってたりしてたので、捨てるのが大変でした。

その頃住んでいた横浜市は、紙ごみは週1回捨てる日が決まっていて、燃えるごみの日には出せません。しかも、書類は、シュレッダーにかけなければ捨てられない類のものでした。

ホッチキスの針を取って、シュレッダーにかけ、シュレッダーが熱くなっては止まるを繰り返していると、だんだん腹も立ってきて、せめて自分のものくらいちゃんと片付けて逝ってよーーなどと、心ならずも叫んだことが何度もありました。

紙ごみは、週1しか出せないので、出す日まで部屋にその都度山積みになります。書籍も、いろいろと調べて、二度に分けて、業者の方に査定などしてもらったりしました。

こういうのがなくなったら、部屋がすっきりするのかな、と思っていたけれども、夫の持ち物が占めていた空間が空いてしまうと、その分、自分の体のなかも虚ろになっていくような感覚に陥ってしまいました。

そう言えば、夫が亡くなった直後、街を歩くと、自分の横の空間が空虚なのをひしひしと感じたものでした。いつも二人で歩いているわけではないけど、その空虚さがとても堪らなく、外出せざるを得なくなるたびに辛かった。

引っ越しの準備と前後して、原因不明の眩暈を起こすようになりました。身体のバランスがとれない感じだけど、メニエル氏病ではないとどこの病院でも言われ、しかも、脳のCTやMRIまで撮ってもらっても異常はないと言われてしまいました。

したがって、われわれの身体が空間のなかにあるとか、時間のなかにあるとかと、表現してはならない。われわれの身体は、空間や時間に住み込むのである。・・・・私は空間と時間とにぞくしているのであり、私の身体はそれに貼りつき、それらを包摂している。(M.ポンティ「知覚の現象学」竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房)

身体と空間と時間は、相互に含み含みこまれる関係にあります。あの家で、あの地で、わたしの身体は夫と過ごした時間と空間に住み込んでいたんです。だから、夫がいなくなって、身体のバランスが崩れた。そして身体が夫と共に過ごした時間と空間を包摂していたからこそ、その空虚さを体が感じたのだと思います。

それから、引っ越したところは、以前住んでいたところよりは狭くなりましたが、夫はもっと空間や時間に縛られず、自由になったと思います。なぜなら、広い空を見上げながら、時折、私を包み込むものの大きさを感じるから。

そしてこの包摂の広さが私の実存の広さの尺度となるのである。
 (M.ポンティ、同掲書)





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