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グリーフ哲学をー悲しみと生

彼が突然逝ってしまったあとしばらくは、何を食べても味気なく、まさに砂をかんでいるようでした。

それでも、当時は仕事をしていたこともあって気を張っていたけれども、一周忌を過ぎたころから、反動なのか、原因不明の目眩に襲われるようになりました。

張り詰めていたその頃の生活は、自責の念から自分を追い詰めていたのだろうと思います。彼の苦しみに気づかなかった自分を痛めつけたかったのかもしれません。

そういうときは、頭よりも身体の方が正直なんですね。身体の方が耐えられなくなって、もう休んで、とサインを送ってくれたのだと思います。

外の空気を吸おうと思って、最初はやみくもに、近隣の林や川べりを歩いていました。が、そのうち、木々の小さいな葉一枚にも命が宿っているのを感じられるようになりました。

自然の、小さいけれども懸命に生きているその営みに、不器用だけどひたむきに懸命に生きてきた夫の姿が重なり、その姿を抱きしめるようにして思わず涙がこぼれたとき、本当の悲しみに触れた気がしました。

そこからでしょうか。少し自分が落ち着いてきた気がしたのは。

その悲しみの感覚は、私にとってはリアルなものでした。同じ感覚は、スタッフをしているグリーフケアの場でもありました。お子様を亡くされた方が、その思いを語られたとき、すーっと悲しみが沁みとおってきて、その感覚が、今の私の拠りどころになっているように思います。

現存在は、気分のうちで開示されている存在を、たいていは存在的・実存的には回避しているのだが、このことが存在論的・実在 論的に意味しているのは、そうした気分が頓着しない当のものにおいて現存在は、おのれが現に委ねられていることを露呈しているということ、そのことである。(M.ハイデッガー『存在と時間』、原 佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス)

人は気分によって生きるもの。だけど、実生活ではそういう自分を抑えて生きようとする。でも、気分に無頓着でいるときにかぎって、気分は人を襲う。気というのは、自分の表面的な部分でのことではなく、根源から沸き起こってくるものです。現在(いま)はそういう気分だというとき、そういう気が生じたところに居合わせたということです。気分に左右される、というのが人の根源的な在り方なのです。

ただ、世間的に生きるには、そういう生き方に蓋をしなければ生きていけません。気分に左右されては、仕事もルーティンワークも成立しないからです。けれども、気によって生きるというのは、実は、不安定でもなんでも
なく、人間の本来的な在り方です。

ふと襲う悲しみ、彼の遺影を前に、涙に暮れた日々。あの当時を思うと、悲しみに沈んだあの頃のほうが、彼を思いながら、死者である彼と密な時間を過ごしたように思います。当時はそんなことを思いもしませんでしたが。

悲しみというのは、死別のみならず、人間の生にも直結しているものだと思います。それは人間の生が、はかないものでありながら、悲しいほどに愛おしいものだからでしょうか。

彼は死ぬまで懸命に生きてきた。わたしはそう思います。


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