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どこまで教えるか、何を教えるか。

小学生に文章表現の指導をしているとき、ある講師の方から指摘をいただいたことがありました。

「ドッチボールが好き、なぜなら友だちをボコることができるから」という子どもの文章に対して「そういうことを書いてはいけないと、しっかり指導すべきではないか?」と疑問を投げかけられたのです。

その回答については、いまだに正解を出せずに考え続けています。その講師の考え方は間違いではありません。素晴らしい問いでした。痛いところを突かれちゃったな、と感じました。しかし、自分なりの考え方があります。そのことについて書きたいと思います。

まず「どこまで教えるか」という問題です。

文章には、そのひとの生き方や考え方が投影されるものであり、生き方や考え方と表現を切り離すことはできません。しかしながら、個々の善悪を問うことは、文章表現を教える講師の役割でしょうか?

私は違うと思います。というのは、既に子どもたちの何倍も生きていながら、いまだに私自身が人間の善悪については分からないからです。善悪を教えることができない。恥ずかしいことではありますが。

表現には自由があると言ってしまうと誤解を生むかもしれませんが、表現である以上、あらゆる表現があってよいと考えています。書き手の生き方とは切り離して、すべての表現を肯定したい。したがって、善悪のジャッジは講師の役割ではない、と。

もし「こういうことを書いちゃいけないよ」と教えるなら、必然的に「なぜ?」を用意する必要があります。その理由が押しつけになってしまうと、子どもたちの自由な発想を奪うことにならないでしょうか。

それが行き過ぎるとセンセイによる検閲や言論統制になり、子どもたちから言葉を奪うことになります。戦時中のように。

そもそも私は、学校をはじめとする社会に蔓延する強制的で不毛なルールが嫌いでした。もちろん法律などのルールに従う常識はありますが、無意味な校則のような束縛に対しては嫌悪があります。上から目線で何かを決めつけられることが嫌いと言ってしまうと大人げないのですが、正直なところそういう未熟さを抱えています。

一方で、自由を奪う当たり前や定型の思考を破壊するのは、いつでも子どもたちの(もしくは子どものような)発想と勇気にあると信じています。寓話になりますが、王様が裸だと指摘したのが子どもだったように。

また、攻撃的な言葉を使う人間が、必ずしも攻撃的な性格であるとは限らないものです。その背景には構ってほしいさびしさや、つらくてたまらない現実の苦しみがある。やさぐれた気持ちが表現となって噴出する。

弱いからこそ、言葉やヴァーチャルなインターネットの世界では強がろうとする。このような複雑さを抱えているからこそ、いじめを完全に撲滅することはできないし、生き難さを解消することは難しい。

一方で、そうしたやさぐれた攻撃的な言葉づかいが身についてしまい「こういうことを言っても大丈夫なんだ」という甘えが高じると、社会的にも問題になるかもしれません。そうやって育った子どもたちを危険にさらす可能性もあります。では、どうするか?

そこで次に重要になるのは「何を教えるか」という問題です。

「自分で気づくことを教える」スタンスが大切だと考えています。つまり、ファシリテーターの立場で、正解を教えるのではなく考えるきっかけを教える。自分で気づくための別の視点や素材を与える。

ボコりたい子どもに対しては「なるほど、友だちをボコりたいのか。そう考えたんだね。でもさ、そう言われたら友だちはどう思うかなあ。きみが友だちの立場だったら、そういうことを言われて悲しくない?」のように。「そんなことを言っちゃダメだろ!」と頭ごなしに否定しない。誘導尋問のようになるのも避けるべきかもしれません。あくまでも自分で考えさせる。

個人的には「自分で理解できないものは、一生理解できない」という身もふたもない諦観を持っています。

分かろうとしたくないのであれば、分からなくていい。というのは、分からないという回答も選択肢のひとつだからです。白紙で提出するテストもあり得ます。ただし、教える側の立場としては、なんでもありで最終的には自己責任のような突き放し方をしたくない。答えを出さないことによるリスクをしっかりと教えるべきです。

頭の固い大人たちと違って、子どもたちは、きっかけさえつかめば自分で考えて、ぐんぐん成長するものです。そのための問いが必要であり、センセイの役割とは、視野や思考を拡げるための刺激を与えることではないかと考えています。もしかすると禅問答にヒントがあるかもしれません。

教壇の上から一方的に知識を叩き込み、受験の実践的なテクニックを教える。そんな昭和に尊重されたセンセイの在り方は、もはや時代遅れではないでしょうか。

知識を教える役割は、人間の体験に根差した知見ではない限り、AIに代表されるテクノロジーに任せてしまえばいい。そのAIでさえ、対話型を究めて進化しています。ビジネスのアイデアを検討する壁打ちの用途など、AIもまた思考を深めるツールとして使われ始めています。

アクティブラーニングという使い古された言葉を使いたくはありませんが、オンラインにせよ対面型のオフラインにせよ、創造性を発揮させるための舞台づくりをすることに教育の可能性があるのでは。

もちろん受験に勝ち、希望する学校に進学するための実践的な教育も大切です。しかし、子どもたちの人生は長い。自己の利益を求めて他人との競争に打ち勝つことばかり考えていて、はたしてこれからの未来に生きる子どもたちは、豊かでしあわせにはなれるのでしょうか?

いま、学校教育は多くの問題を抱えています。しかし、学校教育が対応できないのであれば、民間事業や子どもを持つ親の個々が教育の一端を担う必要があるかもしれません。学校が悪い!ばかりを言っていられないでしょう。

学校以外では、正しさや知識を教えなくても構わないと考えます。魚を与えるのではなく釣り方を教えるという喩えもありますが、方法を教えることでも構いません。

講師やセンセイの役割は、きっかけを与えるだけで十分です。教育は、完全主義で臨むものではないのかもしれません。子どもたちを信じてアバウトでいい。

そして、あらゆる異なる視点を受け止め、自分なりの見解を論理的に表現できることが、成熟したオトナの在り方ではないかと考えています。

2024.03.18 BW


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