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【考えるための文章表現 01】伝わる文章、文章の伝え方。

文章術の教科書によくある書き方指南として「読み手のことを考えて、伝わる文章を書きましょう」がある。このことについて考察してみたい。

この記事では、マーケティング理論を下敷きにした企業のWebライティングとSNSにおける個人の文章を取り上げつつ、AI時代に何を書くべきか、どう生きるべきかを考える。どちらかといえば、後者の「どう生きるべきか」のほうが大切なテーマだ。

その1回目として、伝わる文章と文章の伝え方を考察する。書き始めた理由は、自分の思考の整理にあった。しかし、真剣に何かを書こうとしている誰かの考えるきっかけになれば嬉しい。


2024.02.20:作成開始 2024.02.25:公開 2024.02.26:修正更新
Ver.1.1:16,772文字

0. はじめに

大変申し訳ないのだが、ここでは初心者向けに分かりやすく書くつもりはない。IT関連の技術についても触れるし、マーケティングやWebライティングも取り上げる。心理学や言語学などの言葉を使うかもしれない。

カタカナの専門用語が頻出するだろう。しかし、専門用語については解説を加えるように心掛けたい。

この投稿は、果てしなく長くなる予定だ。分かりやすく伝えることに注力して、大切なことを切り捨ててしまうことを避けたい。自分が分かっていないことを理解するために、冗長な説明や思考のプロセス自体を延々と書くこともある。

分かりやすい「稼ぐ文章術」を読みたいのであれば、noteにいくらでもあるポエムのように改行された200文字ほどの記事をおすすめする。

もちろんそうした書き手を軽蔑しているわけではない。短い文章で本質を突いた素晴らしい投稿がたくさんある。

ただ、あまりにも浅はかな考えで文章術を語るポエムがnoteには多すぎるのではないだろうか。そうした人々がライターと名乗り、文章術を分かったように語ることに対して静かな違和感があった。

もちろん文章術を高度なものに神格化するつもりはないし、分かりやすさも必要だ。にも関わらず、なぜ自分には違和感があるのか。あるとすれば自分だったら何を書くべきなのか。そのことを考え続けている。

この記事は有料記事に設定している。というのは、全力投球で真剣に書くからだ。しかし、労力を注いだことの費用対効果を考えて有料にするわけではない。

買って欲しいから有料にするのではなく、てきとうな気持ちで読まれる読者をお断りするために有料にする。つまり有料にするのは、安易に読まれないフィルタリングのようなものだ。

費用自体も改訂してどんどん上げていくかもしれない。そういうやり方がシステムとして通用できるのかどうか分からないけれど、基本的にはそう考えている。

一方、この記事とは別に無料のエッセイは毎週のように追加していく。自分の基本姿勢として、有料だろうが無料だろうが、いっさい書くことに関して手を抜かないことをポリシーにしている。

趣味だからてきとうでいいとか、この仕事は安いから手を抜こうとか、そういう考え方を好まない。なぜなら、そんな姿勢で何かに取り組んでいると結果として自分の感性やスキルが鈍るからである。

自分の人生は、すべて全力投球が基本だ。だからとても疲れる。消耗して、テンションが維持できなくなることがある。ほどほども大切である。注意したい。

個人的な思考の整理だから、読まれても読まれなくても全然かまわない。ただ、読んでいただけるみなさんは厳選したい。

繰り返しになるが、自分の理解が追い付いていない専門領域に関して掘り下げるために書く。社会に出てから30年あまりの人生で蓄積した自分の経験、知識、学んだことのすべてを振り返り、文章に投入していくつもりだ。

だからといって凄い技術やノウハウがあるわけではない。ひとりの凡庸な人間が生きてきたことの記録に過ぎない。誰でもこれぐらいのものは書けるだろう。書けないのは、書かないだけのことだ。

こういうものは誰にでも書ける。文章を書くことに特別な技術は要らない。書きたい、伝えたいという気持ちがあれば十分だ。

パスカルの『パンセ』を読んだことがあった。分厚い本の中で有名な「人間は考える葦である」という一文以外は、どうでもいいような思索の断片だった。ものすごく大量の文章があるが、その大半は何を言っているのか分からない。しかしパスカルにとっては重要な思考のメモだったのだろう。読後にまったくよく分からなかったが、パスカルの思いが強烈に伝わった

ところで、文章表現教室というタイトルを最初に考えたが、センセイになるのはおこがましい。したがって教室はやめた。教室をやるのであれば対面がいい。もちろんオンラインでもいい。双方向の対話があってこそ教室であり、書籍やブログの教室は冷めている。

大手広告代理店に勤めていたわけではないし、署名原稿を書くようなライターの実績もない。どちらかといえば、文章表現教室では学ぶほうの生徒のスタンスだ。いまも文章について学び続けている。学べば学ぶほど分からないことばかりである。

自分語りは嫌いだが、自分について少し補足してみよう。経歴は詳しく語りたくないので、語らない。何度か転職をした後で、10年以上勤めた会社を強制的に辞めなければならなかった。その理由はうつ病だった。

うつ病といってもいろいろなレベルがある。しかし、自分を苦しめたうつ病は、気分障害と言われるような生ぬるいものではなかった。もちろん気分障害だけでも十分に辛い。しかし、半端ではない辛さの状態が長期化した。およそ10年。長かった。苦しかった。

自分を追い詰めたうつ病を喩えるならば、交通事故で四肢をもがれながら生きながらえる状態に似ていた。死にたくても死ねないし、生きることさえ辛くて厳しい。毎朝目覚めるたびに、当たり前の生活を始めることができない自分が悔しかった。見えない牢獄の冷たい部屋に拘束されて、人生にとどめを刺したいにも関わらず、その一撃をふるうチカラさえない。生殺しにされている状態だった。

そうした状況下の自分を救ってくれたのが文章を書くこと、書き続けることだった。

書き続けることによって生き、社会とのつながりを回復した。奇跡的に現在の自分がある。有り難いことである。苦しんだ当時から思えば、文字通り「ありがたい(あり得ない)存在」として、いまを生きている。

だからこの経験を通じて考えたことを書きたいと思った。誰のためでもない。自分のためだ。

ようやく闘病から10年近くが過ぎ、暗いトンネルを寛解に向けてうつ抜けが見えてきた時期に、とある小学生向けの文章表現教室で講師として教えることを始めた。これが素晴らしかった!

知識や正解を教える先生ではなく、その教室ではファシリテーターとして子どもたちといっしょに表現する空間を作り上げていく。いわゆるアクティブラーニングの実践だ。

作文教室ではない。なんなら文章にならなくてもいい。正解もない。混沌とした創造的なプロセスを繰り返す時間がひたすら楽しい。

子どもたちの文章には、授業後にその場で花まるをつける。白紙にもつけた。というのは白紙だったとしても、子どもたちが考えた時間には価値があるからだ。白紙という答えを出したともいえる。テストではないのだから、どのような回答があってもいい。

授業のあとには、生徒たちの文章を読み直して赤いサインペンでコメントする。簡潔に書くように指示されていたが、ペンが止まらない。書ききれなくて、シートの余白の少なさがもどかしかった。子どもたちに伝えたいことはたくさんあった。永遠に授業と添削を続けられたらいいのに、とさえ思った。

授業中に「書けないよう」という子どもには寄り添い「あっ。それ面白いんじゃない?その続きをセンセイは読みたいなあ。大丈夫だよ、書けるよ!」と声をかけた。この経験を通じて学んだことは尊い。教えた内容より、子どもたちから学んだことのほうに価値があると感じている。

記憶をたどると、うつ病に苦しんでいたときには、企画書のファイルを自宅に持ち帰って深夜から明け方までひとりで戦い続けていた。

パニック障害なのかもしれないが呼吸困難になり、PowerPointで三角形の図形を描くために4時間かかったこともあった。元気なときには、ひと晩で20枚ぐらいの企画書を書き上げていたのに1枚も書けない。全力疾走で走ったときのように、ぜえぜえ、はあはあ、肩で息をする。

息ができないので一度寝室に戻って仰向けになって呼吸を整える。そしてまた仕事に戻る。だが、やはり書けない。もちろん文章も書けない。暗澹とした気持ちに打ちひしがれた夜を覚えている。

だから書かなければならないのに書けない苦しみについては、経験から知っている。それは世の中から消えてしまいたいぐらいに辛い地獄だ。

文章を書くことは「書き出しから句点まで生きること」として考えている。その一文一文が生きる証であり、一文たりとも無駄にはならない。

そして、文章は書かれた瞬間から過去になる。まだ書いていない文章、より善い未来の空白に書き込むために、私たちは書きながら生きる。

壮大なテーマだから、すべてをこの記事で伝え切ることはできないかもしれない。伝わらないかもしれない。しかしタイトルにある通り、伝わる文章、文章の伝え方をこの記事で実践していく。あくまでも思考のライフワークの第一歩として取り掛かるつもりだ。

とりとめもなく雑多な文章になりそうだが、何度も読み直しながら随時、思いついたことを追記、推敲を繰り返してバージョンアップを考えている。

したがって、この投稿記事には完成もなければ終わりもない。エンドレスに続き、最終的には何文字になるかさえ予測がつかない。

前置きがものすごく長くなった。早速、伝わる文章と伝え方の考察を始めていこう。

1. 企業における情報発信と文章

まず企業のコミュニケーション、企業から発信する情報の文章を取り上げてみたい。

「読み手のことを考える」というのは、マーケティングでいえばターゲティングの発想だ。

Webライティングが重視されるようになり、マーケティング理論を文章術に取り入れた結果、見込み客を読者として意識することが求められるようになった。対象読者を絞り込んで書けば届く、訴求ポイントが刺さる、理解されるという考え方である。

ペルソナ(persona)と言われるが、文章を書く前に対象読者を明確に設定することがある。たとえば社内の情報共有アプリを販売する会社の企業ブログ、オウンドメディア(企業が所有するメディア)にコラムを書くとすれば、こんな風に人物像を描く。

「読み手の田中良介氏(35歳)は総務部のマネージャー。DXに関心があるが、会社の点灯しなくなった電球を変えたりトイレの掃除が忙しかったり、なかなか業務改革に手がつかない。彼はルーティーンワークに追われる煩雑さを解消し、全社員の意識を変え、組織を横断して生産性を向上させる効率的な施策がないか探している」

Bwオリジナル例文

BtoB(法人向けビジネス)の分野だから分かりにくいかもしれないが、原稿に着手する前に、この作業を求められることがあった。小説でいえばプロットの一部といえるだろう。

率直なところ空想を働かせている限り絵に描いた餅でしかない。これって途方もないムダじゃないのか?と思うこともある。しかし、相手を理解しようとする試みと努力は大切だ。

なぜ読み手を明確に想定して書かなければならないかといえば、言葉によって相手の関心を引き「意のままに動かさなければならない」からだ。

企業が自社の製品やサービスを売ろうとする場合、伝えたい読み手のターゲット像を明確にして課題を抽出し、解決によって得られる価値を表現する必要がある。

相手の理解だけでなく、自社製品やサービスの理解、競合を知る必要もある。3C(顧客:Customer、競合:Competitor、自社:Company)という教科書的な企業の戦略分析フレームワークの基本である。

敵を知り、自分を知る。もっと知ろうとするならば、マーケティング・リサーチ(調査)を使うこともある。アンケート調査のほかに、A/Bテストのような方法も使われる。主としてA/Bテストはデザイン検証が目的だが、ユーザーに伝わる文章を探る目的としても有効だ。

たとえばWebサイトのコンテンツで、ボタン関連のクリックを押させるために書く短い言葉をマイクロコピー(microcopy)と呼ぶ。

「登録」ではなく「いますぐ無料体験を始めよう!」あるいは「31日間の無料体験はこちら!」などがある。ボタンに直接書くか、あるいは短い文章でボタンを補足する。この言葉によってクリック数が変わる。

どちらの表現を用いると訪問者のクリックが増えたかを検証するために、あらかじめ2つの文章を作って、ランダムに被験者にアクセスさせて検証する。当然のことながらデザインは同一にしなければならない。というのは、言葉のチカラを検証するテストだからだ。

こうしたリサーチはターゲットを知る上で必要だろう。しかし、アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブズ氏はマーケティングリサーチを軽視していたようだ。彼が信じていたのは、自分の感性だった。

リサーチによって膨大なデータを得たからといって、最高のプロダクトができるわけではない。むしろ過剰な情報に惑わされて決定をくだせなくなったり、ありきたりの表現に落ち着いたりしてしまうことも少なくない。

最終的に必要なのは洞察力だ。データの分析は必要だが、ライターやマーケターの感性によって、最適な表現を決定する。

このとき独善的、利己的な発想ではなく、消費者やユーザー主体で考えることが大切になる。

クリエイターとして表現したかった内容ではなく、ユーザーが求めている内容を中心に表現を最適化する。少なくともスティーブ・ジョブズ以外の凡人であれば、そうすることで効果が得られる。

これがユーザー主体の考え方だ。

2. 個人における情報発信と文章

では、個人の文章はどうだろうか?

ブログ黎明期のころに梅田望夫氏は「総表現社会」という言葉を使った。ネットに文章を公開するには掲示板のような仕組みが必要だったが、ブログの登場により、誰もが簡単にテキストで自分を表現できるようになった。

そもそもワープロの登場やDTPにより出版というハードルが下がっていたのだが、この傾向に拍車がかかり、デジタルであれば誰でも物書きの仲間入りができるようになった。

いま、テキストにとどまらず写真やイラスト、そして音声や動画のようなリッチディアに至るまで、さまざまな表現がインターネットには溢れている。スマホのアプリから簡単に投稿でき、リアルタイムで反応を得られる。

ただ、それらのすべてが「表現」といえるのだろうか。表現といわれる領域は幅広い。創造的な表現をするのはクリエイターだ。しかし、日記やつぶやきを投稿しているひとがクリエイターなのだろうか?

SNSの世界では誰もが情報の発信者「書き手」であり、同時に情報の受信者「読み手」でもある。

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