見出し画像

占い師マダムが教えてくれた我慢のやめ時

もともと我慢は得意だった。というか、我慢はすべきものだという環境で育った。あれこれ買い与えられることのなかった我が家では、欲しいモノなんて手に入らないし、時に短気を起こして家族に迷惑をかける父だって、子どもの私にはどうすることもできない。田舎だから学校は一つしかない。自分の思い通りにならないことの方が当たり前だった。

中学、高校、大学と体育会系の部活に所属したことで、我慢は美徳となった。辛くても苦しくても我慢する。そうやって私は強くなった。そして大人たちが言うように、この培った忍耐力こそが私の武器となり、私を明るい未来へ導いてくれるものだと信じた。

バブル崩壊後の就職氷河期初期に大学を卒業した私は、いろいろあったが、なんとか地方の小さな広告代理店に就職できた。創立4年、月刊の地域情報紙の発行がメインの若くて勢いある会社だった。小さいがゆえ、新卒の私も企画から取材、ライターさんとのやり取り、編集、校正などなんでもやらせてもらえた。それはまさに私が望んでいた仕事だった。毎月の締め切りに追われる生活は寝る間もないほど忙しかったが、我慢が得意の私にとってはそれさえ楽しく充実感を味わっていた。

ただ、ひとつ問題があった。


コッ コッ コッ
廊下から響く革靴の音で事務所内の空気が張り詰める。

「はい、おはよう」
にこりともせず、淡い色のスーツに丁寧に磨かれた茶色の革靴を履いた若い男がやってくる。社長だ。背後にはたいてい第一子分である営業部長を連れている。背はそこそこ高くすらっとしていて、色白で、髪も目も薄い茶色。とにかく体中の色素も情も薄い男だった。常時かけている薄く青みがかかったサングラス越しに見える目は凍り付くほど冷ややかだった。初めて『鬼滅の刃』で「鬼舞辻無惨きぶつじむざん」を見たとき、この社長を思い出した。そう、まさにああいう冷ややかさと圧倒的威圧感。誰もが震えあがりひれ伏す。社員はみなこの男、無惨に怯えていた。

実際にミスをした社員への罵倒は凄まじかった。営業不振の理由を聞かれ答えた社員に磨いていた革靴を顔面に投げつけた時は、私は足の震えを抑えられなかった。

先生や大人に我慢し壁を乗り越えた先に光が見えるんだ、と導かれ鍛えあげた私の忍耐力は、無惨からの圧力や暴言から守る鎧となった。耐えることはできる。しかし、耐えれば耐えるほど身を縮め光から遠ざかる。暗闇に時に涙し、時に胃が痛み、時に下血する、そんな毎日を過ごしていた。

無惨は親会社の社長の放蕩息子だと誰かが言っていた。この地域の族のトップだったとか、なんども警察のお世話になったとか。息子を自立させるために自社ビルのワンフロアを与え好きな事業を起こさせたなど、社員間でのひそひそ話は尽きなかった。新卒採用は私たちの代が初めてで、他は皆どこかから引き抜かれてきた人たち。編集長に関して言えば、東京の有名雑誌の編集長だったとか。私は会ったことがない。編集長に限らず、核となっている数名を除くほとんどの社員が頻繁に入れ替わっていた。

同期が皆いなくなった時、さすがに限界を感じた。その時期にクライアントのイメージを損なう劣悪な記事を載せた責任という理由で大好きな編集の仕事を奪われ、営業部へ移動させられた。入社後半年を過ぎた頃。社長の右腕の営業部長と左腕で愛人でもあった営業係長に監視される日々の始まりを機に、私の忍耐という鎧が錆び始めていった。

辞めた同期が大企業に再就職したと聞き、ようやく私も辞める決意を固めた。辞めることは悪いことじゃないんだ、と。

そんな私に待ったをかけた人がいた。占い師のマダムとその愛犬のおじいちゃんビーグル、バロン。営業部に移っても月刊紙に掲載する占い原稿は引き続き私がマダムの自宅まで取りに行った。

初老のマダムは市内のマンションにバロンと暮らしていた。部屋中を囲むワインレッドのカーテンとゆっくりとした足取りのバロンが占いの館っぽさを演出していた。

「ちょっと座って行ったら?」

いつもはあいさつ程度しか交わさなかったマダムが私に声を掛けた。営業になってから時間の融通が利いたので、私も誘いにのってウエッジウッドのカップに注がれたよくわからないお茶をいただきながらマダムに聞かれたことを答えていた。それが気づけば涙を流しながら実はもう辞めるから原稿を取りにくるのはこれで最後です、と誰にも言っていなかったことを吐き出していたのだ。マダムは膝に乗せたバロンの頭をしわの多いふくよかな手で撫でながら「そうなの、それはどうして?」と私の心をゆっくりと開き、「そう~、そう~」と頬の肉を揺らしながら聞いていた。

「でも、今じゃないわね。今は辞める時ではないみたいよ」

マダムが大きな目をきょろきょろ回しながら私の顔を見まわした。理由はない。占い師のマダムがそう感じたのだ。私はマダムに従った。それから毎月原稿を取りにいく度にマダムが私の辞めるタイミングを占ってくれた。

辞める覚悟があり、さらにはマダムという強力な味方を得て、私の心が元気を取り戻した。無惨を見ると「見とれ~、惜しまれる存在になってから堂々と辞めてやる!」という闘志が沸いた。無惨が悔しがる姿を想像するとやる気が出た。最高の仕返しになると思ったのだ。マダムのOKが出る日まで、私は仕事で結果を出すことに専念した。

夏から冬へと変わっても、マダムからのOKは出なかった。仕事に専念すればするほどクライアントからの信頼も厚くなり、いつしか営業成績は固定客をたくさん抱えている部長と肩を並べるほどにまでなっていた。それでも無惨はあの手この手で私に試練を与えた。突然、プロ野球選手の取材に同行させられ、その場でインタビュアーをさせられたり、一人東京へ行かされ持たされたリストの会社を一軒一軒あいさつ回りさせられたり。無惨の期待に応えられなければ社員の前での罵倒や罰のようなものが与えられる。狭い部屋で意味のない作業を何日もさせられ辞めていく社員も多かった。

負けるものかと立ち向かった。「私、辞めます!」と言い放つ強い自分とバロンを抱いたマダムがいつも私を応援してくれていた。

梅の花が見頃になった頃に転機が訪れた。突然、無惨が「4月に東京支社をオープンする。びしばし。、行ってくれるか?」と言ったのだ。初耳だった。夢見ていた東京。就活で全敗だった憧れの東京での仕事。無惨の右腕にも左腕にも家族がいる。身軽なのは私しかいない。それでも無惨が私を必要としているという事実に変わりはなかった。マダムのOKが出ていない以上、断る理由がない。私は入社後初めて無惨に笑顔を見せた。

その月の占い原稿を取りに行った時にマダムに報告した。

「よかったね~。あら、でも、びしばし。ちゃん、今みたいよ」
マダムが寝ているバロンの頭を撫でながら私の顔をにやにやと見た。

ついに辞める時が来たのだ。願っていた通り、必要な存在になってから辞められる。仕事に未練はある、東京行きにも未練がある、でも、それ以上に無惨の手から逃れたいし、無惨の悔しがる顔を見たい。私は1週間ほど気持ちを整理させる時間をとったうえで、無惨に辞める意思を伝えた。

無惨は色白の顔をみるみる赤くしたが、何も言わなかった。キッとするどい目で私を直視し、「わかった」と言い、私の持っているクライアントの名刺を全て没収した。そしてパートさんにお願いする予定だった英会話教室のポスター200枚を、市内中を歩き飛び込みで店先や家に貼らせてもらうという最後の仕事を私に命じた。罰のつもりだろう。受けて立ってやった。この闘い、私の勝ちにしたかった。でも、実のところ、私の中に少しだけ無惨に対して申し訳なさみたいなものもあった。

雪がちらつく2月の街を、1週間近く朝から夕方まで歩き続けた。歩きながら、仕事、楽しかったなぁと涙を流し、約1年、よく頑張ったと自分を褒めてあげた。

退社する数日前、無惨に一人で同行させられた。初めてのことだった。無惨の車の助手席に座らされた時は恐怖で気を失いそうだった。しばらく黙って運転していた無惨が前を向いたまま言った。

「お疲れさん。ようがんばったな。びしばし。なら、どこに行ってもやっていけるとわしは思うで」

私は無惨に勝ったのだろうか…。

余計なことを考えるのを止め夢中で仕事をしていたら、無惨の怖さよりも、自分自身に関心が移行していた。できることやわかることが増え、結果に表れることが嬉しく、自分の成長に喜びを感じていた。そもそも無惨なんて私の作り上げた虚像だったのかもしれない。

マダムに辞める決意を伝えた時に辞めていたら、きっと私は一生自分に「逃げた負け犬」のレッテルを貼ったことだろう。我慢を止めたいと思う時は気持ちがネガティブになっていることが多い。そんな心が弱り感情的になっている時に、正しい判断ができるだろうか。

この経験を通して私は、学生時代に培った忍耐力に、感情に流されない冷静さをプラスすることができるようになった。子どもたちが習い事を辞めたい、部活動を辞めたいと言った時にはいつも「それが逃げなら辞めるときじゃない。満足できたときが辞めるときだ」と伝えている。忍耐は美徳であるが、過った忍耐は自分を傷つける。それを恐れて簡単に我慢を止めれば、向上しようとしている芽を摘んでしまう。


今でも赤い部屋にいるマダムとバロンを思い出す。連絡先も本名も知らない。時々、ネット検索をしてみるが見つけられないでいる。これだけ月日が経っているのだからもうこの世にいないのかもしれない。退社する日、編集部から星座占いのうお座の原稿が文字オーバーだと連絡があった。すぐにマダムに電話すると、

「あ、そうだった?ごめんなさいね。じゃ、最後のラッキーアイテム、びしばし。ちゃんの好きなモノに書き替えてて」

そう言って笑った。

なんだ、マダム、適当だったのね。。。

私の辞める時期も適当だったのかどうかはわからないが、マダムによって我慢をやめる時期を間違えなかったことは確かである。


最後までお読みいただきありがとうございます😊 他の記事も読んでいただけると嬉しいです。サン=テグジュペリの言葉を拝借するなら、作品の中にありのままの私がいます。それを探してほしいなと思います。 いただいたサポートはnote街に還元していきます。