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傍を楽にする


母親が体の調子が悪いと言って休んでたのはたった1日だけだった。


次の日からは、いつもと同じように動き回ってた。


俺は体が治ったのかと母親に聞いてみたら、まだ体の右側の感覚がいつもと違うらしい。


それでも、次の日から働いている。


自分のためじゃない。


会社勤めをしてるわけでもなく好きな時に休んでいいはずなのに、自分の体の調子を後回しにして働いて、一体、誰のための人生なんだろうと俺は素直に思う。


そう思うのは、俺が自分のためにしか生きて来なかったからだ。


こんなことを思ってると、暑い日差しの中、外で畑仕事をしてる母親の姿を見た。そして俺は容赦なく自分の生き方を恥じる。


もちろん、自分のために生きることは悪くない。それどころかそれこそが生物としての当たり前の行動だ。みんな欲のために生きてる。


利己的に生きるように、そう遺伝子にインプットされて生まれて来てる。


でも、母親を見てると自分自身のためには生きてないように見える。


いや、家族の幸せと家族の健康のために生きるのが自分のためなのか?


俺はずっと自分のことだけ考えてきた。


その結果、お金も好きな人も全て俺から去って行ってしまった。


なんでだ?


それは結局は自分から相手に求めるばかりだったからだと思う。


まずは相手に与えるのが先で、そして、その後は何も求めない。


もちろん、人に与えるばかりだと損する事が多いだろう。しかし、人の為に生きる人生を続ける事によって人に愛される可能性が高まる。


社会生活を普通にしてたら、そんな行動は結局は誰かに見られてる。そして、それを続ける事によって自然と人に愛されるようになるのだ。


そう言えば「鬼滅の刃」の竈門炭治郎も言っていた。


「人のためにすることは、結局、巡り巡って自分のためにもなってる」


父親と母親はずっと俺に与えるばかりの人だ。


そして、俺は無一文にならなければ絶対に故郷には戻って来なかった。


ある意味、俺が全財産を貢いだモラハラ女性のお陰で、俺は両親との縁が元に戻った。1人だったら絶対にお金に苦労はしてなかったし、借金すらしたこともなかった。


あのまま都会で一人暮らしをしていたら、俺は無一文になる事もなく、両親が亡くなった時すら何も気付かず故郷にも戻ってなかっただろう。


本当に人の縁とは不思議だな。無一文になったからこそ、両親に俺の元気な姿見せて、少しだけでも親孝行が出来てるのだから。


そんな両親は今日も暑い中、外で畑仕事をしている。


もう何もしなくても暮らしていけるだけのお金は持ってるはずだ。前にレポーターの高田純次のごとく、しつこく、いやらしくお金はいくらあるのか聞いてみたが、絶対に教えてはくれなかったが、お風呂の改装工事に500万をポンと出したり、俺に再度株式投資をさせるために数百万を無くしてもいいからと出してくれたりしてるから「これはかなり貯め込んでるな?」と、俺の中のマネーの虎がビンビンと反応してる。


それなのに、今日も暑い中、父親と母親の二人は働いている。


「働く」の本来の語源は「傍楽(はたらく)」と書く。


傍(はた)は周りの人、楽(らく)は楽にさせる。


本来の「働く」は他者の負担を軽くしてあげる、楽にしてあげるのが本当の意味だ。


「傍を楽にする」という考え方ではお金は関係ない。お金が発生するかしないじゃなく、周りの人を楽にしてあげる行為は、本来は全て「働く」ということになるのだ。


だとしたら、俺は今までの人生は「傍楽」をして来たのか?


いや、してない。


傍を楽にして来てないから、一人ぼっちなのだ。


そして、暑い中、今でも自分の体を犠牲にして「傍楽」ことをしてきた両親だからこそ、お金が貯まり、周りの人に愛されて来たのだ。


俺は積み重ねることの大事さを、今頃、両親の無言の背中から教えてもらってる。


それは決して難しい事ではなく、両親は自分たちに出来ることを、地道に人に見返りを求めずやって来ただけだ。


そして、その積み重ねた実績は俺がどうやっても追いつけない。


家族のため周りの人のため、ずっと、前から「傍を楽にしてきた」両親に俺が今からいくら頑張っても追いつけることはないのだ。


でも、今日からでも「傍を楽にする」心を持って過ごしていこうと思ってる。


決して、思うだけで終わらないようにする。


絶対だ!


いや、多分…

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