カメラを止めるな

プロフェッショナルであることと、アマチュアであること ――平成の最後に投下された爆弾「カメラを止めるな」の地味なレビュー――

異例の大ヒットとなっている「カメラを止めるな」。オレ自身も腰を抜かしました。こんなに面白い娯楽映像作品はこの10年さかのぼってもなかったし、平成の最後に投下されたどでかい爆弾でした。

ただ、おそらくこの映画の持つ映画ならではの構造の工夫や映画愛については多くのレビューアーが熱く語ると思います。この投稿ではこの映画の持っている構造としてのすごさには触れず、この映画に流れるテーマである「プロフェッショナリズムとアマチュアリズム」について、可能な限りネタバレをせずに書きたいと思います。

この映画の中では、「プロフェッショナリズムとアマチュアリズム」を象徴的に表す一言として、「作品である前に、番組なんだ」という言葉が何度か出てきます。これは結構刺さる言葉でした。

オレは、「プロフェッショナリズムとは何か?」ということを一言でいうのであれば「代替可能な状況に向かう態度のこと」と考えています。これは、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出てくる達人だとか鉄人だとか偉人の態度とは異なる態度のように見えます。しかし、プロフェッショナルとは、固有名詞抜きに社会の要請に「そこそこ」そして「常に」答えることができる「集団」のことだと思います。警察であればだれであろうと社会秩序を守ることに貢献する、医者であればだれであろうとそこそこ人の健康に役に立つ技量を持っている、小学校の先生であれば、少なくとも人の尊厳を傷つけずに人の成長を助けるすべを知っている必要があります。それが「社会に必要条件として答える義務を持つ集団」としての「プロフェッショナル」であり、そのエッセンスは「自分でない誰かでも自分と同じパフォーマンスを発揮することができる」状況の実現なのだと考えます。

オレ自身は、お金をもらって商売をしている人間は基本的に「プロフェッショナル」のスタンスに立つべきだと思っています。さらには、それに国のお金が投入されているような仕事 --例えば、警察、自衛、教育、医療など-- については、そこに係わって生計を立てている人間は「プロフェッショナル」の要素を強く持つべきです。誰か一人だけが傑出した能力を持ったところで、集団としての役割を担えるわけではありません。

イチローのように「プロフェッショナリズムの権化」のような人は、確かに極めて高いプロ意識を持っています。生活のルーティンなどは、象徴的なものだと思います。そこにあるのは「私以外の誰か」に関する代替性の追求というよりは、「昨日と今日と明日の自分が代替可能である」という状況に向かう意識なのだと思います。アマチュアは、社会に対して責任を持っていません。だから、好きなことを好き勝手に言います。「作品か、番組か?」という問いには常に「作品」と答えます。しかし、プロは「番組」が社会に請け負っている責任を常に感じています。

では、「アマチュアでること」は、「であるべきではない」ことでしょうか?私はそうは思いません。プロは失敗を最小限にとどめなければいけませんが、アマチュアは失敗してもいいです。むしろ、失敗は自分を成長させる糧でもあります。そして、プロである為に捨てないといけないことを、アマチュアは捨てずにいることができます。アマチュアは「甘ちゃん」であることを許されます。

「あまちゃん」で宮藤官九郎がタイトルに込めたメッセージは、「海女ちゃん」とともに「アマチュアちゃん」であり、「甘ちゃん」だ、とオレは解釈しています。自分が好きで、とても大切にしているものに対して何も捨てたくない、という気持ちは、まさにアマチュアリズムの美徳です。そしてそれが、見る人にとってどのような結果を生み出すかとか、費用対効果がどうかということを抜きにして、良いものを提供したいというプロセスそのものに純粋に向かう態度を私は「アマチュアリズム」だと考えています。そして、アマチュアリズムは長続きしないし、アマチュアリズムだけでは組織の体をいつまでたってもなしません。

「カメラを止めるな」で地味に主張されているメッセージは、この「アマチュアリズム」の美しさとダメな部分の両面です。特に映像や音楽、美術など、アートの世界において、プロフェッショナリズムと引き換えにアマチュアリズムを捨ててしまうことは当事者に大きなアイデンティティクライシスを起こしていきます。

映画「カメラを止めるな」に、主人公である映画監督のお嬢さんで「まお」という少女が出てきます。この少女は、やはり父親と同じようにおそらく映画監督を目指しているのですが、主人公の監督さんは「早い、安い、質はそこそこ」をモットーにしているということです。おそらく、アーティストであれば「質はそこそこ」ということに納得はしていないはずです。そして、もしそこに完全にあきらめてしまっている人であれば、「早い、うまい、安い」と言っているのだと思います。「質はそこそこ」というのは、まさにプロフェッショナルとしての覚悟が言わせているものだと思います。まおは、父親のことを当初(表面上)軽蔑しています。なぜなら、父親は「アマチュアリズムを捨てた人間」だからです。私を含めた、この映画を見ていた多くの人間にとって、まおは実にイライラさせるキャラでした。なぜなら、彼女は「アマチュア」であり「甘ちゃん」だからです。しかし、驚いたことにこの映画を見終わるころオレは登場人物の中でまおに一番肩入れをしていました。まお自身は何ら変わっていないのですが、この物語の中でオレの「甘ちゃん」に対する視点が変わったのです。

この映画では、うまくいかないことだらけが起こります。そして、そのうまくいかないことは克服されないまま転帰を生み出し、実はその転帰のみしか見ていない人間たちにとっては、「うまくいったいる」ように見えるのです。これは、「プロとアマ」のもう一つの違いかもしれません。「プロ」は、最初から転帰にこだわります。そして、「転帰」あっての「プロセス」という構造を自分たちの行動規範の中に置いています。アマチュアにとって、転帰は結果としてあるものです。「プロセス」と、「プロセスに向かう姿勢」が大切なのです。そして、実はこの部分がなければ「転帰」としてもうまくいかないという矛盾した構造が存在します。

この映画の秀逸な部分は、「プロフェッショナルであること」と「アマチュアであること」の美しさとダメさを両方描きながら、両方が入り混じったときにおこるカタルシスが明瞭に描かれているところです。ラストシーンでのみんなの笑顔は、過酷な条件をプロフェッショナリズムとアマチュアリズムの両方で克服した人たちの昇華された表情のように見えました。こういう体験が、何かに向かっていく人を成長させるのだと思います。

たぶん、仕事の内容によってプロフェッショナリズムとアマチュアリズムの配分は大きく異なるでしょう。自衛官が「遊びごころ」を大切にされるのはちょっと引くところがあります。逆に、アマチュアリズムがない研究というものは、「研究」という基本的な特性を否定しているような気がします。

両方の美しさをかみしめながら、仕事に向き合い、人生に向き合うことの美しさをこの映画は気づかせてくれました。まあ、とはいえ、この映画の本当に素晴らしい部分はやはり別のところにあるのですがーー。

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