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【短編小説】待っている人

 十歳も年下の男の子と遊んでいる、と母が聞いたら、はしたない、と言うだろうか。遊んでいるとはいえ、世の人が想像するような、淫らな関係ではない。彼の最寄り駅で待ち合わせて、一緒にハンバーガーやパスタを食べて、公園で最近読んだ本の話をして――、それで終了。はじめは金銭のやりとりがあったが、いずれ陽はそれを拒むようになった。「なんか、これ負担」わたしが差し出した一万円札を返し、ジーンズのポケットに手を入れてイアフォンを取り出した。
「でも、なんで希奈さんは俺を買おうとしたの?」
 性的な関係を要求されると思った、と続けて陽は呟いた。わたしは首を振って、「弟がほしかったから」と陽の顔を向いて言った。陽は顔をきょとんとさせ、それからわたしの願いの子どもっぽさに笑った。「何それ」
 
 陽を買う前に、わたしには恋人がいた。恋人はいつも忙しく、月に二回会えばいいほうで、彼とのやりとりは基本的に週末の電話だけだった。もちろん、素直に彼の忙しさを受け止めていたわけではなく、いつも不安でいたし、なぜ遠距離でもないのに会いに来てくれないのだろう、と疑問に思っていた。彼に他に大切な人がいるのか、と聞きたくなる瞬間はいつだってあった。でも聞く前に、わたしのほうからいつも話題を逸らしてしまう。
 恋人が別れを切り出したのは、雨が降っていた平日の夜のことで、わたしはお風呂から出ると、彼の着信履歴が残っていることに胸をざわつかせたものだ。平日に電話するのは、決まってよくないニュース。案の定、電話を取ったら、彼はわたしの名前も呼ばず「もう終わりにしない?」と言ってきた。
 わたしには引き留める権利などない。彼が重荷に感じていたのは、彼がわたしにどんな扱いをしても、わたしはそれに何も文句も言わなかったこと。週末の電話を待ちわびていたこと。いつも会話は本音から離れた表面的なもので、彼をいたわろうとする無用な気遣いをしていたこと。
「俺のほうから言いたくなかったよ。いつかは希奈から離れてくれると思っていた」
 それを待っていたんだ、と彼は言った。

 冬だというのに、街の装いはまだ秋の名残があった。公園のベンチで陽はわたしが貸した本を渡した。
「これ、相手の男ができすぎているよ」
 それはジェーン・オースティンの「高慢と偏見」で、わたしがイギリス文学に興味を持ち始めたきっかけの本だった。
「できすぎている?」
「ここまで愛する人に手厚いサポートができる男なんて、女性の幻想じゃない?」
「女性作家は男性の幻想を語り、男性作家は女性の幻想を語る。違う?」
「幻想を超えるリアリズムを書けなければ、作家の仕事とは言えない」
 作家とはいえ、所詮は人間が書いたもの――、とわたしは言いたくなったが、目の前を走る子どもたちに目を向けて冷えた手をさすった。
「希奈は結婚願望とかあるの?」
 ふいをつかれ、わたしは陽の顔を見た。陽の鼻先が少し赤くなっていて、わたしに目を向けずに自分のスニーカーに目を落としていた。
「結婚願望……、どうしてそれが知りたいの」
「俺に関係してくるから。相手ができたら、こういうことできないし」
「ただ会って話すだけなのに?」
「それが嫌な人だっているでしょ。俺は別に希奈に相手ができてもいいけど」
 そう話す陽の顔は、心なしか寂しそうに見えた。寂しそう、と感じるのは、わたしがそうあってほしい、と思っているからなのかもしれない。
「結婚できる人とできない人が世の中にいるとしたら、わたしはできない人なのかもしれない」
「どういうこと?」
「いろいろ考えてできない人。相手のことを考えて、先回りして気を遣って……。そうすると、相手は居心地悪くなるでしょ」
「まあ、それはあるかも」
「陽はあるの? 結婚願望」
 陽はわたしの顔を数秒見てから「あるよ」と答えた。それも意外だった。陽のすべてを知っているわけではないけど、陽は大学でも群れることが嫌いだと聞いていたからだ。「俺は愛する人がいればいい。友だちとか別にいらない。大学のやつら、みんな馬鹿で絶望したから」
 陽の生意気な発言に、わたしは意地悪な気持ちになって、「愛する人も大学の子たちと同じかもしれないよ?」と言った。わたしの問いかけが愚かであるように、陽はハッと笑って「そんな人を選ばないよ、俺」と空を眩しそうに見上げた。わたしも陽の視線を追いかけ空を仰ぐと、飛行機雲が垂直に高いほうへ伸びていくのが見えた。
「こんなことを言うのはさ。それこそ傲慢かもしれないけど、俺は普通の人より賢いつもりだから」
 公園で遊ぶ子どもたちの声が拡散して空に吸い込まれていく。賢いつもりなら、なぜわたしと会っているのだろうか。そのことを問い詰めることはしなかった。

 *

 わたしは趣味で本の書評ブログを書いていて、それをきっかけに陽とやりとりをするようになった。はじめは陽がブログに簡単にコメントを残し、それはいささか手厳しいものではあったけど――わたしがトルストイの「戦争と平和」を名作だと書くと、陽はトルストイは自身の思想にページを割きすぎだと批判した。
 ブログと連携していたSNSに陽は飛んで「仕事はなんですか?」と簡単な挨拶のあとに、とうとつに聞いてきた。ブログでは職業を明かしていなかったのに、顔も知らない陽に自分の職業を答えた。「編集者をしています」
 陽は都内にある私立大学に通う学生で、第一志望の大学に入れず、しかたなくレベルを落とした大学に通っている、と不平まじりのメッセージを送ってきた。
「僕の周りは女の話とゲームの話と車の話しかしない。嫌気が差して休学しようかと考えていた」
 その矢先にわたしのブログに辿りついたのだという。
「でもネットでまともに話せる人に会えた気がした。僕は小説家になろうと思っています。小説家になれば、退屈な話をする人間と関わることもなくなるだろうし」
 その文面を見て、わたしは安直な考えだと笑ったし、恋愛感情ではない好意を感じた。そこからわたしは思い切って「もしよかったら会いませんか?」と誘った。
 ちょうど若い男の子と話したかったのだと、下心を隠さずメッセージを送った。十歳も離れている大人と会うには、そこまで陽に覚悟を持たせたほうがよいと思ったからだ。
「いいですけど。僕お金ないんで、遠くまで行けませんよ」
 それでわたしはただで話そうと思っていない、あなたにバイト代を支払うと伝えた。
 返事が遅かったけど、陽は次の日に「了解です。いつ会います?」と承諾してくれた。

 *

 夜の街に漂う空気の匂いはどうして昼とは違うのだろう。前の恋人がいる間も、わたしは夜にひとりで部屋にいることが耐えられなかった。スウェットに着替えて、夜の公園の周りを走って、風を切りながら心拍数を上げて汗を流す。そうすれば、自分のなかにこもった霧のような感情が、どこかに流れて消えていく気がした。
 公園を走りながら、わたしは陽に教えてもらった音楽を聴いていた。手にすることのできない女性を思いながら、彼女がいる街を去る歌だと陽は言った。それを聞いたとき、陽が離れていく予感がして、思わず陽の顔を見て「この歌に共感したの?」と聞いた。
「歌には基本的に共感したことない。小説を読むのと同じだよ。語られない人間の人生のワンシーンを覗いている感じ」
 わたしはほっとして、その曲を探して陽と一緒に聴いた。カフェのテラスにふたりで座って、通りすぎる人たちを目で追いながら。きっと、澄ました顔で歩く人にも、泣いたり惜しんだりする瞬間があって、でも残りの人生があるから歩いているのだとわたしたちは話し合った。
 公園を走りながら闇のなかで木々がざわめき、ふいに恐怖がわたしを覆った。走りながら、陽に会いたい、と強く思った。でも、わたしは陽を所有することはできない。
 ならば、所有したいと思っているのか――、わたしは立ち止まって、汗がついた額に手をあて自分に問うた。
 陽が本当の弟だったらよかったのに。会う口実など作らず、ただ家族だからという関係で、いつでも会いに行ける。 
 再び、わたしは走り始めた。

 *

「――俺たち付き合わない?」
 ホットドッグを買ってふたりで並木道を歩きながら、陽は提案した。陽はパンをかじり、しばらく言葉を返せないでいるわたしから顔を逸らし、気まずそうにポケットに手を入れた。
「どうして付き合わなければいけないの?」
 身の丈に合わない言葉だろうか。本当なら喜ぶべき提案であるはずなのに、わたしはそれを受け取れなかった。恋人になるなら、いつかは終着点がある。愛するという感情がある分、相手を憎むし、それに疲れたら別れる日が来る――、これまでの恋愛でわたしが学んだことだ。
「どうして、と言われると思わなかったな。付き合っても今までの関係とは変わらないし。結婚とかじゃない。会って話すことが増えるだけだよ」
「会って話すことを増やしてどうするの?」
 たたみかけるように問うわたしに、陽は眉間に皺を寄せて露骨に嫌な顔を見せた。「もっと会いたいからだよ」
「希奈さんは、俺のことをどう思っているの? 前から知りたいと思っていた。恋人でもない歳の離れたガキと、ときどき会って話すだけで何が楽しいの?」
「本の話ができるから」
「最初の質問にはどう答える?」
 そのときめまいがして身体が揺れ、前方を見て、目の前に歩いている恋人たちの姿を認めた。そこに陽とわたしの影を当てはめることができるだろうか。それこそ、母に笑われ、呆られ「また同じことを繰り返すの?」と釘を刺されるだろう。
「じゃあ、もし俺が希奈さんと同じ時代に生まれて、幼なじみのように一緒にいたとするなら? 俺のこと異性として恋愛感情を持った?」
 なぜ、陽はこんな質問をするのだろう。まるで今わたしが、陽に恋愛感情など一切持たないかのように。それはわたしのなかにあって、どうしても表面には出せないものだった。
「時代が問題じゃない。ただ、わたしは……」
 いつものように別れるのが嫌なの。そう口にしたとたん、わたしは離れていった恋人が目に浮かび、ビーズの重さに耐えられず糸が切れるように、涙が自然と流れていった。いつも、好きだとは言えなかった。愛情をこちらから示すと、離れていく気がした。愛に重さがあるとするなら、恋人とわたしのバランスは崩れていたと思う。
 そしてなぜか、玄関先で母を待っている子どものわたしも目の裏側に映し出された。わたしには母しか頼る人がいないのに、いつも母の帰りは遅かった。いつ母が事故に遭うかもしれないと思って、母が帰るのを見るまでひとりで眠れなかった。
「……なんで泣いているの?」
 泣いている女性に慣れないように、陽はわたしの肩に手を触れようとしたが、その手は宙に浮いたままだった。
「久しぶりに泣いたかも。なんで泣いているんだろう。自分でもわからない」
「誰との関係を思い出しているのかわかんないけどさ。いつもとうとつに別れるわけじゃない。もし希奈さんがひとりになりたいなら、恋人関係を終わりにして、友だちとして――、まあ弟でもいいけど。別の形で関係を始めればいい」
「陽がわたしのことを嫌いになったら?」
「嫌いになる? 今の俺は希奈さんを嫌いになれるとは思えない。尊敬しているから」
 わたしは笑って、笑えたことで涙がひいた。同じ世代の子たちを馬鹿にする陽に「尊敬」という言葉を引き出せたことがおかしかった。
「何がおかしいの?」
「陽に尊敬されて光栄だなと思った」
「希奈さん、馬鹿にしているでしょ」
 わたしは笑うことではぐらかし、陽に答えなかった。陽はわたしの腕を引っ張って「明日俺、バイトないんだ。希奈さんが俺と付き合う気が会うなら、明日の朝電話してくれる?」と、不安と緊張した顔を隠さず、陽は言った。
 わたしは陽の顔を見て「考えてみる。時間はないけど」と答えた。

 *

 朝方にかけて夢を見た。わたしはひとり、裸足のままフローリングの上に立っていて、誰かを待っているようだった。部屋はとても寒くて後ろを向いたら、窓に霜が張り付いていて、外は雪まじりの雨が降っているかのようだった。わたしは耳を澄まして、目の前のドアの奥で鳴る、風の音のなかに人の気配を探していた。車が走る音は聞こえたが、人の足音は一切こちらに届かなかった。
 わたしは目の前のドアに頬をあてて、目を閉じた。頬に当たったのは、氷のように冷えたドアだったのかもしれない。夢のなかでは、痛みは幻と同様感じることはできない。 
 そこには誰もいないよ。
 幼い男の子の声がし、わたしは後ろを振り向いた。彼は出窓に腰かけて、短い青色のカーテンに顔を隠していた。
 もう誰かを待つのはやめようよ。誰かを待つのではなく、君を待っている人のもとへ行くんだ。
 彼は出窓の縁から降りて、わたしのもとへ歩いてきた。わたしは彼の顔を見ようとするも、彼の顔に目線を動かすことができない。
 ――わたしを待っている人?

 夢のなかでわたしは声に出して問いかけられただろうか。それとも、心の声が響いただけかもしれない。どちらにせよ、目覚めたわたしには確認しようがなかった。朝起きれば、夢はもろくも崩れさり、色あせた断片だけが残るものだけど、今朝見た夢は短い映画を見たように、わたしの目の裏側に鮮明に記憶された。
 陽だ、きっと。
 朝のコーヒーを入れながら、わたしはそう結論づけた。わたしに助言を言える人は、陽しかいない。厚かましくも、賢い年下の男の子。
 テーブルの上に置いたスマホを手にとり、わたしは息を吐いた。わたしを待っている人――、そんな人、存在しないと思っていた。
 途中で壊れてしまったら? わたしが思うシナリオ通り、別れが訪れてしまったら? その質問に、現在のわたしは答えられない。陽ならどう答えるだろう。もしかしたら、仮定の話をするのを嫌うかもしれない。
 答えが知りたい。
 わたしは陽の電話番号を探して、陽に電話をした。

 ***

<あとがき>
リハビリ用に去年書いたものです。年下男性×年上女性、その逆年下女性×年上男性の物語を書きたくて、作ってみました。粗が目立ちますが、ご容赦ください。
 

 

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