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【短編小説】彼の身の上話【前編】

 霧のような小雨で街が白くけぶるなか、時計台の前に傘を差さずにたたずむ彼の姿は、さながら映画の主役みたいにさまになっていた。遠目からでもわかる、質のよいグレーのチェスターコートに黒いタートルネック、下は濃紺のパンツを合わせて黒いスニーカーを履いていた。センター分けにした長い前髪から、わたしの姿を認めたとき、彼はどう感じただろう。女として、ではなく、身の上話をする相手として。
「――すぐわかりました? 僕はなんとなく、そうじゃないかなと」
 事前にメッセージで送ったわたしの顔写真はマスクをしていたので、顔の半分は隠れていた。けれど、よく「殺意がこもっているね」と言われる、くっきりと開いた吊り気味の暗い目で、一発で見当がついたのだろう。わたしが時計台の前に歩みよると、彼は街ゆくひとに注ぐ目をわたしに移し、軽く会釈をした。マスクをかけている彼は、SNSによくあげている自分の横顔の写真どおり、現代風の、洗練された、ネットの広告で出てくる少女マンガの男性キャラのような雰囲気をしていた。

「写真、撮るの好きなんですよね。きれいなものをデータに残せるし、撮っているときは余計なことを考えずに、その対象物だけに集中できる。なんていうか……、風景をちゃんと慈しめている感じがするんですよ」
 カフェに入り、紅茶をゆっくり味わうように飲みながら、「Xくんがあげる写真、透明感あって好きだな」と切り出したわたしに、彼はそう答えた。カップを持つ彼の指は、女性のように色が白くて、爪はきれいに切りそろえられている。加えて、カップを置く音の繊細さに、彼の性格が表れている気がした。
「SNSでは、大学生って書いてあったけど……、芸術関係とか?」
「いやいや、まさか。実学のほう、経済を学んでいます。写真を撮る仕事には憧れていますけど、親に反対されましたね。ただでさえバカ息子なのに、やりたいことを自由にはさせませんよ」
 小さく笑いながら自分のことを「バカ息子」と卑下するのは、意外だった。品のよさを感じていたから、親の教育から素直に学んだ子だと思っていたのだ。
「何かやらかしたことでも?」
 そう踏み込むと、彼はとたんに顔を赤らめ、ああ、いや……、と言葉を濁した。わたしはマグに口をつけながら、微笑ましく笑い、やんちゃだったんだ、と彼をからかった。――振り返ってみれば、こんな質問しなければよかった。やらかしたこと、なんて過去の事情を掘り返す言葉なんてかけなければ、今頃、いい流れをつくり彼を自宅に持ち帰り、幸福なひとときを味わえたかもしれない。先月、二股をかけた男から捨てられたわたしは、SNSでつながっている現代風の彼に、メッセージで恋愛相談を持ちかけた。こちらに下心があるのにもかかわらず、優しい彼はわたしに同情してくれ、一緒にご飯食べないか? と誘ったら簡単に承諾してくれた。なぜだろう? それは惨めなわたしを自分と同類だと思ったからだ。
「――じつは僕、高校時代にちょっと揉めたことがあるんです。それは、恋愛のことなんですけど」
 ここから彼の長い身の上話が始まる。そのときわたしが想像したのは、友だちとの三角関係で派手に喧嘩したとか、好きなひとが進学するからという理由で美大を目指したとか、そういうたわいのないものだった。

「僕が高校1年のとき、好きになったひとがいて……、それは、英語を教えている先生だったんですけど。笑うと唇の右端に深い皺ができるとても魅力的な女性でした。その当時、彼女は40歳だったかな」
 想像とは違う話題だったので、いくつ離れているのか、冷静に計算ができなかった。
「……まあ、25は離れていたわけなんですけど。彼女の声、そう英文を読み上げる声と、伏せたときの目元がとてもきれいで。僕、つい授業中に隠し撮りをしたんですね」
 すると、その英語の女性教師はすぐに気づき、彼の携帯を取り上げた。
「「授業に集中しなさい」って叱られて、何を撮ってたかは見られなかったんですけど、没収されました。それで……、気持ち悪く思われるかもしれないけど、僕、すごくうれしかったんです。なぜか。そのひとに叱られて、うれしくて思わず笑ってしまって。ますます怒らせてしまったんですけど。怒っている先生も、なんかかわいかったんですよ。顔が赤くなって、叱りなれてないから、怒る言葉も優しくて……、そういうところも、いいな、と感じましたね」
 その日授業が終わると、その先生のところへ携帯を引き取りに行き、謝罪したそうなのだが。
「先生の前に立つと、なんか顔がだらしなくなって。すると、まだ反省していないの? と言われて、いや真面目に反省しています、って返すやりとりを何度か繰り返したんですよ。とうとう先生が、顔がふざけている! ってマジ切れしたとき、僕は冷静になって、正直に言いました。先生の顔を見ると、幸せな気持ちになるんです、って。そんなバカなことを真面目な顔で言ったんですよ。そしたら、先生はきょとんとして……、まあ当たり前ですよね」
 先生の英文読み上げている姿、きれいだと思います。と、子どもだから真剣にはとられないだろう、と甘く見て、彼は率直に言ったそうだ。すると、その女性教師の顔が「桜色に変わったんですよね」。それから彼と女性教師は、顔を合わすたびに冗談を言い合うようになった。
「内心……感じていたんですよね。あぁ、先生も僕のこと、好きなんだなって。生徒として、というよりひとりの男として。こういうと、勘違いしていると思われているかもしれないんですけど、そのあと先生から誘ってきたんですよ。部活の帰りに雨降られたときがありまして、そのときも僕、傘なしで歩いていたんですよね。すると偶然、先生の車が通りかかって、「乗っていかない? 風邪ひくよ」って」
 そこで話を一時中断し、彼はティーカップを鼻の下まで持ち上げ、目を伏せて数秒香りを堪能してから口に含んだ。今までわたしが出会ってきた男たちは、カフェに行くと、パシャパシャと自撮り写真を撮るか、バカデカいフラペチーノを頼んでトイレに行きたがるような人間が大半だった。それゆえ、彼の紅茶を飲む仕草をまじまじと眺めてしまった。
「――それで、僕は先生の車に乗ったんです。しかも助手席に。隣に座って彼女の顔を見ると……、止まらなかったんです。僕の衝動が。信号待ちになったとき、僕がずっと見ていることに彼女は気づいた。「そんなに見ないで。頬のシミがばれちゃうから」って冗談のように言って、見つめる僕をたしなめたんですけど……」
 僕は彼女の横顔にキスをしたんです、と彼はわたしに目を据えて言った。真面目な表情だったが、今でも彼女の夢を見ているように、意識の遠い目をしていた。わたしは息を数秒とめ、適切な相づちの言葉を探した。へぇ、大胆だね。言えたのは、それ。しかもあまりにもその声は平坦に聞こえた。
「キスをしたあと、やっぱりな、と感じましたね。彼女もそれを望んでいたことがわかったんです。信号がこのまま止まっていてくればいい、とあのときほど強く願ったことはありませんでした。でも、それはあり得ない。唇が離れて、彼女は今までのことがなかったように、冷静な顔をしてハンドルを握りました。運転中声をかけちゃいけない、と思いましたが、ハンドルを握る手にひかるものがあって、かけずにはいられませんでした。――先生、結婚しているんですか? その質問に彼女は動揺しませんでしたね。結婚して5年になるんだ、と答えました。今でも僕は彼女のそのときの気持ちがわかりません。これほど嫉妬に駆られている男を前に、どうしてそんなことを平静に言えたのか」
 ガチャンッ、と彼はいつになく乱暴にカップを置いた。その音に背後に座っていた男女のカップルが、振り向く。わたしはどのような顔をつくればいいのか、わからなかった。ただ、居心地悪いときの癖で、背を丸めて窺うように彼の顔を見ていた。
「――すみません。思い出したら、興奮してしまいました」
「いいえ」
「じつは、Yさんなら僕の気持ちがわかってくれるような気がしたんです。愛されたいひとに愛されなかった、この、なんというか、行き場のない感情は、体験しているひとしかわからないと思って」
 愛されたいひと。その身に覚えのない言葉を聞いて、わたしは打ち上げられた魚のように、目と口をぱっくりと開いた。彼が指しているわたしの愛されたいひととは、二股をかけて先月わたしを捨てた男である、とわかっていた。でも、その男に捨てられて傷ついたのは、彼のようないささか狂気じみた純粋な恋情とは違い、「そんな男」に捨てられたという、わたしの惨めな自尊心だった。
「――今思えば、先生にとってあれは、ちょっとした遊び心からだったのかもしれません。25も離れた年下の男が、自分に熱をあげている。しかも、いっときの恋愛感情で。そんなふうに、思っていたのでしょう。結婚している、とわかっているのに、僕は彼女のことを追いかけました。水道で花瓶の水を入れ替えている彼女を見てハンカチを差し出したり、掲示板にポスターを貼る彼女を見て、代わりに留めてあげたり……、運よく、放課後の教室で彼女を見たときは、すぐ窓際に彼女を連れていって、カーテンに隠れてキスをしたりしました。でも、彼女は嫌がらなかった。いたずら好きな少女のように、笑っていたんです」
 後ろから、ビールはないのかえ? としゃがれているわりに大きな声が聞こえてきた。振り向くと、一様に同じ服装、同じ顔をした老人の団体客が入ってきたようだった。老人客のなかの、男性か女性か判断がつかない、とにかく声の大きい代表格の老人が、ビールだよ、ビール、知らねぇのかよ、姉ちゃん、とあきらかにしらふではない絡みかたを女性店員にしていた。
「――だから、僕はそのまま突き進みました」
 老人客に気をとられ、彼が何を「だから」とつなげたのか、とっさに理解できなかった。わたしはとにかく場を持たせるために、バカみたいな笑いを浮かべた。
「初めての体験は……、もちろん、彼女でした。だからこそ、僕は今でも思い出してしまうのかもしれません。フォルダから写真を選びだすように、彼女の笑顔、きれいな白い脚、華奢な背中、シャツを脱ぐその瞬間……、そのどれもが鮮やかに今も心のなかに描ける。でも実像は、目の前にはないんですよね」
 どうやら、酔いが回っているのは老人客だけではないことを、わたしは知った。彼の落ち着き払った静かな声は、どこか哀しい歌を口ずさんでいるかのように、センチメンタルに響いた。

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