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【短編小説】「美しくあること」

 彼女との待ち合わせ場所に向かう途中、後藤雪人はつい癖で、道の脇に止められた車に歩み寄った。車の窓に映る自分の顔や髪型をチェックし、マスクを外してサイドミラーに自分の顔をすべて映す。先週、不評だったパーマをとり、ストレートに戻して髪色を明るく茶色に染めたが、雪人は自分で見ても、悪くない、と思った。悪くないどころか、真奈なら感動してくれる。まだ高校生と言ってもまかりとおる、あどけない真奈の顔が、自分を見て恥ずかしそうに赤く染まるのを想像した。ついでに真奈のブラウスを脱がして、下着のストラップに指をかけてもてあそぶことも思い描いた。顔がにやけていたら隣の一軒家から、鬼のようにむっつりと不愛想な老婆がほうきを持って出てきて、雪人はすぐさまふしだらな顔をマスクで隠し、車から離れた。

 雪人が自分の顔にうぬぼれるようになったのは、中学生の頃からだった。
 中学一年のときは、どんくささや女々しさに女子たちから馬鹿にされるだけだったが、二年になり、一学年下から好かれるようになった。それもそのはずで、後輩は雪人の限られた情報しか知り得ない。雪人がたびたび、牛乳やマヨネーズで腹を下すことも、男子たちから回された成人漫画に動揺して先生に見つかってしまうのも、キャラものの下着を履いていることも知らない。ただ、彼女らは雪人の、バランスのとれた中性的な顔立ちを見て、うっとりと恋愛妄想をするのだった。

 最初、雪人は慣れない好意に戸惑ったものの、電話番号が書かれたメモがスクールバッグに溜まっていくうちに、鏡を見る頻度が多くなった。試しに雪人は自分の姉に聞いてみたことがある。俺って、イケメン? 早朝に聞かれ、姉はあくびをしながら大笑いした。あんたがイケメンなら、わたしは映画女優かモデルだよ。寝ぼけてんの? そう言いながら、姉は雪人の、鳥の巣のような頭をごしごしと撫でた。まあ、大目に見て、平均よりは上? その意見に雪人は満足した。姉が雪人を評価することはめったにないからだ。
 
 高校に上がり、雪人は初めて彼女ができた。よく一緒になる放課後の帰り道を、自転車で並走していたら、のちに彼女となる子が、橋の向こうに落ちていく夕日に向かって「後藤くんが好きー!」と叫んだ。それが初めてされた告白だった。もちろん、雪人は自転車から転げ落ちた。
 
 でも、長くは続かなかった。ファッションのために買った腕時計を触りながら、真奈との関係はそうならないといいけど、と雪人はひとり呟く。時計台に背をもたれかけると、その背後にあった噴水が、水しぶきを上げた。雪人はそちらに目をやり、再びiPhoneをいじった。いつも雪人のほうが先に到着する。どの恋愛も、自分のほうが重いような気がする、と雪人は思った。待ち合わせ時間まで、あと十五分はある。真奈を急かすようで、到着したと知らせるのはためらった。
 
 最初につき合った彼女は、思ったひとと違った、という理由で雪人を振った。なんだよ、それ。結局は、見た目で誤解されていたのか、と思うと、女の子を信じられなくなりそうだった。キス以上のことはしてくれないまま、別れた彼女はすぐに新しい彼氏をつくった。雪人のほうは、前の彼女の写真を消していないどころか、電話番号や誕生日や記念日がいつになるのかさえも、しつこく覚えていた。雪人にも好きになってくれる女の子が現れたが、試しに一緒にデートをしてみると、ろくな会話ができなかった。映画を見たり、パフェを食べたり、カラオケをしたりしたが、どれも心が動くことはなく何も感想が浮かばなかった。帰る前に写真を撮ろうと誘われて、嫌な予感がして断った。そのときの女の子の顔を覚えている。眉間に皺を寄せて、軽んじるかのように舌打ちをされた。もちろん、そのあとの約束は交わさなかった。

 吹っ切れたのは、大学に入った頃。酒に酔ったふりをして、気になった女の子の耳元で甘い言葉をささやいた。もちろん、冗談だと受け止められたが、さりげなく膝に手を置かれた。そのまま、ふたりで夜の街を歩き回って、路地裏でキスをして、彼女の家に泊まった。目覚めたら、むくんだ彼女の顔がそばにあり、こんなにも簡単だったんだ、と雪人は拍子抜けした。その彼女とは三か月つき合った。当然、そのときも振られたのは雪人だ。

 ――雪人は男って感じがしない。ずっと弟と一緒にいるような気持ちだった。

 同じことを、次の彼女との間でも言われた。理由を追及すると、彼女は渋りながらも答えてくれた。すぐ泣いたり、好きかどうかをしつこく聞いたり、虫ごときで慌てたり、つまりそういうところ。その日から、雪人は「男らしく」という強迫観念に突き動かされ、インターネット検索に明け暮れた。最終的に辿り着いた答えは、筋トレだった。 

 朝は五時前に起き、柔軟体操のあとに動画を見ながら腕や腹筋や脚を鍛えるのが日課になり、バス通学をやめて自転車で大学に向かうようになった。筋肉は思ったよりも、すぐ身体についてくれない。彼女にわずかについた二の腕の筋肉を触らせたが、へなちょこ、と指でつつかれて笑われるだけだった。そのうち、彼女はバイトを理由に、デートをキャンセルするようになった。もしかして、俺嫌われた? 不安になり、共通の男友だちに相談を持ちかけたところ、言いにくいんだけど、と前置きされ、俺とつき合ってるんだ、と涼し気な顔で告白された。雪人は友だちの裏切りに、しばらく返す言葉が見つからなかった。大学のテラスで、ふたりベンチに隣り合って座りながら、窓にぶつかってくる果敢で愚かなスズメが、落下していくのを見ていた。季節は夏なのに、実家の母が作ってくれる、シチューやポトフが恋しくなった。早く、温かい家に帰りたい。母さんや姉ちゃんと話したい。男女の友情は成り立つのか、あるいは孤独は本当に人生を損なうものであるのか、とか。

 その日不本意ではあったものの、男友だちにカフェラテを奢られてしまった。大学の自販機にある、一杯百円に満たないものだ。憶測に過ぎないが、これで友人は自分の良心をなだめているのだ、と雪人は感じた。たった一杯のカフェラテで。しかも、砂糖とミルクなし。男友だちと彼女との関係は、もうかれこれ三週間は経っているらしく、その期間でどこまで進んでいるのかを想像すると、雪人は隣に座っていられなくなった。とりあえず、俺A棟で筋トレしてくるわ。最近の口癖を使い、友だちと別れてテラスを出ようとしたら、べちっという鈍い音がして振り向いた。ベンチに面した窓ガラスに、スズメの身体の痕が白く残っている。ばかなやつ、と呟き、スズメに同情して涙が出そうになった。

 ――そんな経験をへて、ようやく理想の彼女と出会った。それが、真奈だ。

 時計台の前で待っている間に、雪人は街歩く女性たちが、こちらをちらちらと見ているのに気づいていた。さりげなく、雪人は前髪をかきあげる。ストレートだから、すぐに額に降りることを承知で。それを見た通りがかりの女子大生たちが、スマートフォンで口を隠して、うわっ、と声を挙げてくすくすと笑った。雪人の自己愛の強さに、共感性羞恥でも感じたのだろう。雪人は女性たちの心理を深く察したりはしないが、前髪をかきあげるのは違っていたな、と認識した。手に持っていたiPhoneが振動し、真奈からメッセージが届く。もうすぐ着く! 待ち合わせ時間はちょうど五分前だった。真奈は過去つき合った彼女のうちで、もっとも誠実な子だと雪人は思う。約束時間を破ったことはないし、顔を合わせれば会わなかった時間に誰と会って何を話していたのかを報告する。不愛想な店員や真奈を見る通りすがりの男の視線に、機嫌を損ねて黙っていたら、真奈は優しく手を握ってくれる。俺のこと好き? という言葉にも真奈はいつも笑顔だ。わかっているくせに、と言って答えてくれないけど。

 雪人は真奈が現れる数分の間に、会話のシミュレーションを頭のなかで繰り返した。まず、真奈の服装や髪型に何か変化がないか観察してから、切り出そう。俺の髪型、どう? ストレートに戻したんだけど……。真奈は前回のパーマについて不満は洩らさなかったが、きっと、この髪型のほうがかわいい! と言ってくれるはずだ。真奈はよく雪人に向かって、「かわいい」という言葉を使う。最初は気づかなかったが、真奈が言うに「かわいい」は美しさやかっこよさを含めた、最上級の褒め言葉なのだそうだ。

 いや、照れるな。想像しながらマスクの奥で、頬や唇を緩めていたら、ユキくん、と名前を呼ばれた。顔を上げるまでの瞬間、雪人はぞんぶんに期待を込めていた。だけど、目の前に現れた真奈は、まるでこれから長い闘病生活を強いられるひとみたいに、暗い顔をしていた。
「……どうした? 真奈、顔が」雪人の視界が徐々に広がり、真奈の髪型や服や靴に目がいく。いつも艶やかだった真っすぐな髪は、寝起き同然の散らかりよう。服装はカジュアルというよりも、完全にスウェットだった。デートのときは、背伸びしてパンプスを履いていたのに、今日は雪人も認知していなかったような、ごつごつした登山靴だった。
 すっかり雪人は自分の髪型のことを忘れ、「……本当にどうした?」と繰り返し訊いた。
 真奈は手に持っていたiPhoneを胸にあてながら、顔を俯け、「……しが、……られなくて。……そう」と語尾だけ聞き取れるような、沈んだ声で話した。雪人が内容を聞きとろうと近寄ると、真奈はiPhoneの画面を見せた。そこには、芸能人のゴシップを載せた記事があり、高原ケイ結婚! と現役アイドルの突然の結婚発表について述べられていた。雪人はiPhoneを持つ手が震えている真奈の顔に目を向けると、涙が幾筋も流れ落ちているのに気づく。
「なんで泣いてなんか。……高原くん、結婚したんだ? まだ若いのに」と言いながら、俺より若くはないけどな、と雪人は心のなかで呟いた。真奈はiPhoneを持ちながら顔を手のひらで覆い、むせび泣く。これには雪人はうろたえた。周囲を通り過ぎる人々は、真奈の声に振り向き、そして雪人を認めると、状況を察した。ひどい別れ文句でも言ったんだろうな。それとも男のほうが、浮気したのが発覚したのか。見るからに、遊んでそうな容姿をしているし。通りすがりのひとの目は、雪人の頭から足先までを滑らかに辿り、そして勝手に納得すると自分の行く方向へと戻した。雪人は周囲のひとを掴まえて、誤解を解きたい衝動に駆られたが、それよりも真奈をなだめることが優先だ、と冷静になった。目の前の真奈に顔を向けると、哀れに思うほど、崩れていた。
「……わたしは、ケイくんを支えに生きていたのに。もう生きる意味を失った」
 生きる意味を失った。画面の向こうでしか会えない人間を支えにしていた事実と、察するに自分よりもその人間を愛していた事実に、雪人は言葉を失った。真奈にとっての俺はなんだったのだろう? これまで交わした、お互いの愛の深さをほのめかす言葉の数々、抱きしめ合った、という生々しい記憶――これら一切が、真奈にとっては軽いものだったのだ。少なくとも、雪人よりも。
「……生きる意味?」俺もなんだか、わからなくなってしまった。
「そう。大学行って勉強して、バイトして、就活対策もして――すべて、わたしにとって、苦痛だった。ユキくんには言ってなかったけど……、ケイくんに出会うまでは、わたし毎日どうやったら楽にこの世から消えるのだろう、と考えていた」
 もうやめてくれ、俺に負のオーラをかけないでくれ。雪人は、頭を抱え、耳を塞ぎたい気持ちに駆られたが、ここは冷静になるふりをすることにした。「そうだったんだ。知らなかったよ。言ってくれれば……」覚悟はできたしうぬぼれなくてすんだ、と雪人は思ったがむろん言葉にしなかった。
 おそるおそる雪人は真奈の肩に手を置く。ねぇ、俺でよくないですか? と雪人は真奈に言いたかった。彼氏よりもアイドルを優先させる心理が、雪人には皆目理解できない。真奈はしおらしく、雪人の肩に額をぶつけた。先週ネットで取り寄せた、ブランドもののストライプシャツの胸元が冷たくなり、雪人は空を仰ぎながら目をつむった。ああ、鼻水かよ。真奈のマスクは鼻水を浸透させていた。
「……俺はどうしたらいい? 真奈」
 言葉を発する余裕もないくらい、真奈は荒い呼吸を続けている。雪人はそっと、まるで冬の日に地面に張った真新しい雪を掬うような慎重さで、真奈の髪を撫でてやった。
「――どうしたら、真奈を満足させられる? その、高原くんより……というのは、あれだけど。少なくとも真奈の大切なひとに、俺はなれるのかな」
 雪人の胸にうずもれた、真奈の震えが収まった。雪人が待っていても、決して顔をあげなかったが、代わりに雪人のおろしたほうの手に、自分の手を絡め始めた。
「……そのままでいい。雪人くんは変わらなくていい。わたしは……少し足りない雪人くんが好きだから」
 少し足りない雪人くん。なんだよ、それ。雪人は真奈の額を押して、自分の胸から離れさせたが、傷ついてはいなかった。赤く腫れた真奈の目が、ゆっくり半月形に変わり、いつものとおり、くすくすと声を押さえて笑う。ばかにしてんな、真奈。文句を言いながらも、雪人の手は、真奈の手を強く握りしめる。雪人はかつて、自分の顔で興味を持たれた女の子たちを思い出した。どの子も、雪人の内面までは愛してくれず、いずれ目の前から去っていった。
 
 果たして、真奈はどうなのだろう?

「……失恋したから、何か甘いものが食べたいな」
 それ、俺の前で言う? まあ、いいけど。雪人は真奈の手をつなぎながら、彼女の前を先導するように歩いていく。そして振り返り、「俺さ、じつは髪型変えたんだけど……」と傷心中の真奈に言った。真奈は目を輝かせ、「え、めっちゃかわいい!」と時間差で褒めてくれた。それを聞いて、雪人は満足気に前を向いて歩く。この街には、俺よりかわいい人間はいないな、と思いながら。

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