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【短編小説】夢見る魚

講義が退屈だと感じると、僕らはいつもA棟の裏で煙草を吸っていた。煙草がうまかったわけでもなく、そうすれば話題がなくて手持ち無沙汰な状態になっても、一緒にいる理由があると思ったからだ。直也も同じように、考えていたのかはわからない。直也は会話を繋げる努力をいつもしなかった。
「この間読んだ小説、クソつまんなかった」
 そう愚痴を吐くために煙草を口から離すと、僕のスラックスの膝に燃え滓が落ちた。
「何読んだの?」
「高校生が書いた小説。名門校の女子高校生が」
直也は煙草の煙を吐きながら笑った。「なんでそれを読もうと思ったわけ? キャッチコピーにでも釣られた?」まるで僕を侮辱するかのような言い草だった。
「うんまあ、似たような感じかな。選評がベタ褒めだったから、本当の天才かと思ってさ。でも蓋を開ければ、なにこれ?って。若者特有の承認欲求をわかりやすくパッケージにした感じ。腹が立ったけど、最後まで読んだな」
 直也はベンチから立ち上がると、片方の腕を上げて、手のひらを空にかざした。何してんの? と僕が聞いたら、「陽がでてきた。さっきまで曇っていたのに」と校舎と校舎の境目から漏れる、日差しに目を細めながら眺めていた。
「――話を元に戻すと。その子が受賞した回、俺も出していたんだ」
「何を?」
「小説を」
 ようやく直也はこちらのほうを向いた。低く唸る風に前髪がなびいて、直也の狭く白い額が露わになった。
「へぇ、興味深い」
「相変わらず、心こもってねぇなあ」
「違うよ。本当に興味持っている。俺も書いているから」
 その発言に、僕は意外に思ったのだ。直也は個人的なことを語るのを避けているのか、僕に伝える必要がないと思っているのか――どちらにせよ、僕にとってはわからないことだらけだった。ある日街中で直也が女の子と歩いていたのを見つけ、ひやかし半分でそのことを本人に伝えたら「あの日は別れ話をした帰りだったんだ。あまりにも俺が冷たすぎるって言われてさ……」と、直也より彼女に同情するような悲惨な話を、いくつか抜粋して聞かされたことがあった。
「書いているって、恋愛小説でも?」今度はこちら側が侮辱する番だ。
「あー、恋愛小説かあ。いつか書きたいな。フローベールの「感情教育」みたいなのとか」
 僕は直也に自作小説を送るよう、催促した。直也はその場で、僕のメールアドレスにPDFファイルを添付して送ってきた。おそらく、枚数十枚にも満たないものだ――なのにも、かかわらず、直也の文章を読み進めていくうちに、僕の身体に熱が走った。それはほとんど怒りに近い、嫉妬心からだった。
「――直也は、どこかの賞に出さないの?」
 作品の評価をすることをせず、僕は聞いた。よい評価を述べて自分の感情を隠すことも、悪い評価を述べて自分の直観――直也には才能があること――をごまかすことも、どちらもしたくなかった。
「賞? 出さないよ」
「どうして? 小説を書いている意味ないじゃん」
 直也は目を細めて笑い、僕が腰かけているベンチに座った。それから背もたれに大きく寄りかかって「俺は狂っているんだ」と言った。
 意味がわからず、直也の横顔を見た。直也の視線は目の前の、樹木の灰色の幹に注がれていた。
「きっと、慎二のほうが作家になれるよ。俺は小説を書きながら夢を見るけど、狂っているから現実に適応することはできない。夢のなかで生きたいと思ってしまうから」
 そのときの僕は、直也の言っていることをひとつも理解できなかった。いつもの浮ついた、パラノイアじみた発言だと思って、もっとわかりやすく言えよ、と直也の脚を蹴った。でも直也はへらへら笑うだけで、それ以上説明することはなかった。

 〇

 数年後、直也の予言は当たった。僕は会社員として働く傍ら、文学賞に作品を投稿して、優秀賞をもらった。小説家志望として首席にはなれなかったけど、次席にはなれた、ということだ。いくつか小説の仕事依頼が来て、見切られたくないから必死に僕は書いていった。恋愛や友人の誘いを犠牲にしたおかげで、本を二冊出すくらいの作家にはなれた。
 では、直也は?――大学を卒業してからほとんど、連絡をしていない。なぜなら、直也は軽い自殺未遂を犯し、精神科に入退院を繰り返していた。遅れて僕は、直也の言いたかったことを繰り返し考えた。ときどき、おぼろげにわかったような気もし、でもそれが真実だと認めるのは怖くて避けていた。

 〇

 病棟に入ると、尿の臭いがツンと鼻の奥を刺した。柔和な表情をした看護師が、僕を面会室のほうまで案内し、パイプ椅子に座るよう促した。面会室のドアが閉まると同時に尿の臭いも消えた。僕はリュックサックに入れた文庫本を取り出し、直也が来るまでそれを読んで待っていた。小説のなかで季節が変わると同時に、直也が先ほどの看護師と一緒に入ってきた。目元は青ざめてはいるが、顔の形、体型はほとんど変わらなかった。「久しぶり」と僕が言うと、直也は顔に皺をつくらないような、小さな微笑みを浮かべた。

「まさか来るとは思わなかったよ」
 看護師の許可を得て、僕らは病院の敷地内を散歩した。直也は黒いスウェットに片手を入れて、落ち着かなくときどき背後を振り返った。
「迷惑だった?」そんなわけがない、と僕は確信しながら直也に聞いた。
「ううん。今サイコーの気分。たとえるなら、片想いしていたひとと帰り道、自転車で二人乗りしているような?」
「何かヤバいの飲まされているのか?」
「冗談だよ。入院生活めっちゃ暇だから来てくれて、ほんとうれしかった。それだけ」
 それから僕たちは売店に寄り、煙草とアイスとサンドイッチを買った。直也いわく、病院の食事は「調理している人寝ながら作ってんの?」と疑うくらい救いようのない味で、売店で「本当の味」を補完しなければやっていられないのだ。
 僕らは病棟のテラスに座り、直也はサンドイッチを広げながら煙草を吸った。直也は煙草の一本を僕に勧めたが、僕は手で払うような仕草をとり「俺は吸わない」と言った。直也の目が一瞬見開かれた。
「え、なんで? 禁煙?」
「もともと好きじゃなかったんだ。それに小説を書くのに集中したくてさ。だから酒も飲まない」
「はー、そうか」
「おかげで小説頑張れているよ。金にはならないけどな」
「まあ、そうだよね。売れればいいっていう分野じゃないし」
 直也は玉子サンドに手をとり、そのままかじるのではなくちぎりながら口に入れた。
「直也は書いている?」
「何を?」
「わかっているのに質問する癖、どうにかしろよ。小説だよ。ねぇ、書いているの?」
 直也は一瞬遠い目をして、笑っているような、悲しんでいるような表情を見せた。
「つまらない散文なら書いているけど――物語として終わらないんだ。きっと俺が終わらせたくないからだね」
 そのとき、目の前に見える渡り廊下で、初夏なのにコートを羽織っている中年男性が通りすぎた。明らかに、こちらを見ている――そして敵意を込めて睨んでいる様子だった。
「直也は、いつ退院できるの?」話を変えたつもりだが、先ほどの直也の答えと地続きのような気もした。
「さあね。医療保護入院だからなあ。俺の意思だけじゃなく、家族と医者の判断が必要なんだよね」
「早く退院できるといいな」
 そのとき、直也は僕の顔を見た。まるで常識的ではない言葉を僕が口にしたかのように、心外さを顔に出していた。
「……もしかして、退院したくないのか?」
 直也は答えない。代わりに「アイス溶けるよ。こっちから先に食うべきだったな」と僕のほうにアイスカップを滑らせた。
「前にさ、閉鎖病棟の映画を観たことがあるけど、退院したくない人もいるのか?」
 それにも直也は答えない。まるで僕はつまらない質問を生徒に繰り返している、能力のない教員のようだった。
「この間さ、久しぶりにサリンジャーの小説読んだんだ」
 直也は僕に向き直ってそう言った。話を逸らされた、と思ったが、直也の話は僕の質問に対する答えかもしれなかった。
「サリンジャーの? 俺はライ麦畑しか読んだことなくてだな……」
「じゃあ、バナナフィッシュは知らない?」
「聞いたことはあるけど。短編集のやつ?」
「そうそう。バナナを大量に食べる魚がいてさ……。まあ、これはひとつのメタファーなのだろうけど。ここにいる人たちは、バナナフィッシュを信じているんだ」
 僕はもう一度、渡り廊下のほうに目をやった。先ほどのコートの男はおらず、青いナース服を着た看護師が、カートを押していた。
「それもメタファーみたいなものなんだな?」
「そうだね。たとえば、慎二にはバナナフィッシュが見えないだろうけど、俺には見える、というか「存在する」と信じることができる。思うんだけど、信じるものに実体があるかないかは問題じゃない。信じる人がいれば、そこには確かに「存在」するんだ」
「よくわからないな。抽象度が高すぎる」
「そうだよ。僕たちはみんな目を開きながら夢を見ているから、現実的に、具体化できないんだ。抽象的な世界で生きている」
「なあ、心配になってきたんだが、本当にヤバい薬を投与されているんじゃないの?」
「ある意味ヤバいかもね。飲むと頭が冴えたり、よく眠れたりするから」
「はー、なんだか俺帰ったほうがいい気がしてきた」
「かもね」
 でもその日、すぐには帰らなかった。僕は直也に伝えたかったのだ。小説を書き続けてほしい、と。才能がもったいないとか、友情心からとか、そういうものではなかった。僕が信じている小説の世界に、直也の作品が存在してほしかったからだ。
 しかし、直也にそれを伝えることはできなかった。

 〇

 直也の見舞いに行った日の夜が過ぎ、日付が変わる頃、僕は目覚めた。何かが不条理な気がした。でもそれを言葉にすることができず、頭のなかが靄のように包まれ、不快さと痛みを覚えた。それから、僕はパソコンを開き、USBに保存している直也のいくつかの作品を読んだ。どれも僕はいち読者として、作品の強度を保証できた。
 出版社の公式ホームページを開いた。そこにある公募から規定内容をチェックし、直也の短編をWEBで応募した。個人情報を適当に入力し、最後にEnterキーを押したあと、疲労感とともに強烈な睡魔が襲った。ベッドに入りながら、大量のバナナに食らいつく魚を思い浮かべた。でもそれを明確にひとつの像として立ち上がらすことは困難だった。これがあいつとの違いか――、僕は苦さとともに、安堵を覚えて眠りについた。

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<あとがき>
今日書いた習作です。三幕構成というか、最初に三つの展開だけを決めてから勢いで一気に書き上げました。昔交流あった人のことを思い出しながら。最近誤字や文法上のミスがひどいので、軽く推敲しましたが、日本語の違和感はご容赦くださいませ。

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