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【掌編小説】忘れていた秋の色

 ぷちん、と呆気なくそれは切れた。使い始めて初日というのに、動揺も苛立ちも感じなかったのは、それが三百円均一で買った安物のネックレスだったからだ。三十歳過ぎて三百円均一? あり得ない! 友だちの直子はそう言うだろう。いつだったか、SNSで「大人になればなるほど、安物の服が似合わなくなる」と呟いていたひとがいた。わたしはチェストの上に置いた鏡を(これも三百円均一)手に持ち、鏡の前で口をいーっと真横に引いて見たりした。いつも跳ねている右側の毛先を指で梳き、手のひらに残った一本の抜け毛を見つめた。
 
 ――三奈ちゃんは、俺と同い年に見えるよ。出会ったときから、何も変わらない。
 去年、彼氏に振られて転職もなかなか決まらずにいた頃、泣き腫らしたわたしの顔を真っすぐに見つめて、誠はそう言ったのだった。入社して二年目の誠は、濃いグレーのスーツを着ていて、それが高校生の制服に見えた。変わらないわけないでしょ、と弱く反論しながらも、誠の優しさに甘えそうになった。誠の言葉を信じそうになった。
 
 あのセリフは、今でも有効なのだろうか? わたしはヘアアイロンで必死に毛先が内側に向くよう伸ばし、LINEで誠に聞いてみようか迷っていた。わざわざそんなことを聞いてみるの? 誠くんが三奈に気があるのを知って連絡とるの? ――直子の声が、わたしの手を止めようとする。経理の仕事をしている直子は、何事もきちんとしていなければ気が済まない。それは他人の人間関係についても同じ。わたしと誠の関係――かつての家庭教師、そして教え子、くわえて七歳という年齢差――をよく思っていない。釣り合っていないし、仮につき合ったとしてもうまくいくわけない、という直子の経験則からくる確信のようなもの。
 悩みながら必死に伸ばした髪を見て、ふーっと息を吐き出す。はいはい、わかっていますよ。そう呟きながら、背後のカーテンを引き、窓を開けた。昨夜の雨でベランダの床は湿っていて、植物ではなく、じょうろがひとつ倒れていた。それを直しながら、誠の顔が頭をよぎる。情けなく泣いたわたしの顔を、まっすぐに見つめた誠の顔を。出会ったときから変わらないのは、わたしではなく誠のほうだった。出された課題を真面目にやり、わたしが作成した学習記録シートをすべて塗りつぶしたときのはにかんだ顔や、玄関先で迎えに来るときの恥ずかしさと期待のこもった表情、仕事をすべて終えたとき、これでわたしも誠も卒業だね、と言ったときの絶望した顔――ひとつひとつを思い出すたびに、頬が緩んでくる。それから第一印象で「子ども好きそうだね」で言われることがあっても、気づまりに思うこともなくなった。家庭教師を終えてからもつき合いは続き、誠の成長を見るたび、自分を肯定することができた。
 
 でも――、去年誠の前で泣いてしまったあのときを思い出し、呼び出したことや泣いたことを後悔していないと言えば嘘になる。閉店間近のファミレスにはひとが少なく、誠の小さな声もよく通って聞こえた。誠のテーブルには、ブレンドコーヒーを入れたカップが置いてあった。カフェインなんて苦手なくせに、と気づけば、誠が準備していた言葉に動揺しなかっただろうか。
 ――自分を卑下しないで。三奈ちゃんは俺にとって、昔から変わらず……、愛しいひとなんだ。つ、つまり……す、好きだ。
 どもりながら「好きだ」と告白したときは、半分前のめりになっていた。わたしは鼻水を拭うことさえ忘れ、誠の幼く白い顔をぼんやりと見つめていた。それから数秒経って、感情が伝染するように、お互いの恥ずかしさを感じ取り、ふたりとも顔を赤く染めてひたすら飲み物で喉を潤していた。
 それから――幸か不幸か――何も変わらなかった。いつものように連絡を取り合い、時間さえあえば一緒にご飯を食べに行ったりした。たまに帰り際、誠が何かを言いたそうにしていたが、わたしはさよならを告げて振り返ったりしなかった。電車の窓を見ながら、誠が俯いて帰る姿が目に浮かびながら。
 
 三奈の本心はどうなの? 誠くんのこと好き? 子どもとしてじゃなく、恋愛対象としてだけど――直子に笑い話のように打ち明けたら、真面目に訊いてきた。わたしは笑うのをやめ、直子らしいと思ってしまった。ごまかす冗談を受け入れないし、本質を見抜いてしまう。お酒を飲もうとグラスを持ち上げたら、直子の手に邪魔された。まさか酔ったふりなんかしないでよ。三奈が酔えないほど強いのを知っているから。
 わからない、とわたしは答えた。正確に言えば、自分の本心を見つめるのが怖かった。純粋な誠を好きなことなど、自分でも知っている。でもわたしの愛は、誠の愛とは違うような気がした。誠から好かれている、という優越感が勝っていた。
 嫌な人間だし、誠と釣り合うわけない。それなのに――、「――もしもし?」わたしは誠に電話をしてしまう。

 〇

 見上げてみたら、空に雲がひとつもなかった。乾いた風が吹き、足もとの落ち葉が、せわしなく音を立てて移動する。並木道の通りにある、古い煙草屋の近くでチェック柄のコートを着た誠がしゃがみこんでいる。何をしているのかな、と眺めていたら、自販機の下に硬貨を落としたようでそれを探しているみたいだ。(小銭なら諦めればいいのに……)とわたしは思ってしまうのだが、真面目な誠は探し出す。指先に挟んだ百円玉がきらりと光り、わたしのほうを向いてそれを満悦そうにかざして見せた。 
「寒いからこれ。ココアでよかった?」
 わたしは頷き、誠からココアを受け取る。長い前髪の奥で誠の瞳が細まる。マスクを引き上げて、わたしの隣に座った。
「並木道、いい感じに染まってるね。これを見に来たかったの?」
 電話でネックレスが切れた、とつまらない話をしたあと、とうとつに誠が切り出した。三奈ちゃん、秋だから大学通り歩いてみない? と。
「うん、そうだね。本当はどこでもよかったんだけど……。三奈ちゃん、秋が好きって昔言ってたじゃん? それなら銀杏とかも好きかも、と思ってさ」
「え、そんなこと言ってたっけ?」
「忘れたの? 俺が高校生のとき言ってた。秋の匂いとか色とか、しみじみするーって」
 よく覚えてんね、と言いながら、そのときにつき合っていたひとを思い出した。美術館で働いていたひとで、自分が生まれた季節だから秋が好きなんだ、としみじみと言っていたのだ。そのときのわたしは、彼が好きなものを自分の好きなものと混同する癖があった。結局、そのひととは、自然消滅してしまったのだけど。
「三奈ちゃんが言った大切なことは、何度も繰り返し思い出しているよ」
 誠はそう言って、折り紙を張ったような平べったい青さが続く空をじっと眺めた。わたしたちが座るベンチの前を、何人ものひとが通り過ぎる。初老の夫婦、大学生連れ、スマホで連絡を取っている会社員、そして互いに背を押して歩く子どもたち。
 
 わたしが通りすがりのひとに気を取られていると、「……手をつなぎたい」と何の脈絡もなく、押し殺したような声で誠は言う。わたしが誠を見つめ返すと、誠は視線を下におろしたままで、「……つき合うとか、そういうのはまだ先でいいと思ってたけど」「……でも三奈ちゃんと会って帰ったあと、俺すごく後悔して。まあいろいろなことを、ね」「……このままのほうがお互いにいいということはわかるけど。その、俺もまだ精神的に大人じゃないし」「でも、なんていうか……本能と理性との葛藤? ひとりで考えすぎて、疲れてきてさ」「……うまく言えないけど、結論は少しでも進展したいです。以上」と言って、頭をさらに下げた。まるでわたしの返事なんか受け付けてないみたいに。
 
「なんで」わたしなんだろう、という言葉をしまいまで言わずに、誠は顔を上げて大きく瞬きをした。「……俺のことをずっと信じてくれたひとが、三奈ちゃんだった。わかるでしょ、俺が本気なの。じゃなきゃここまで待ってないし」誠は恥ずかしそうに、前髪の毛先を直した。それから手をわたしのほうに差し出し、「俺の手をとらなければ、潔く諦める。……そんなことできるかわからないけど」と自信なさそうに付け足した。

 俺のことをずっと信じてくれたひと。どんな成績が出ても、誠は賢いから、継続していけば必ず成績は上がるから――そんなセリフをわたしは言い続けていた。でもそれは、彼が教え子だったからだ。
 
 手はわたしのほうに差し出しているのに、誠は顔を背けて目をつむっている。話し方や表情の動きは変わらないのに、身体はいつの間にか大人になっていた。直子の諦めたような顔がちらつく。誠を好きになってもいい? その質問に直子はこう言うだろう。子どもじゃないんだから。三奈が決めなさい。
 手のひらを重ねたら、緊張のせいか誠の手は湿っていた。触れるなんて、自分でも信じられなかった。誠の緊張がわたしの手から伝わり、自分の心臓の音を強く意識した。誠は目を開き、今まで止めていた息を吸いこみ、わたしのほうを向いた。誠も「嘘でしょ?」というような顔をして、わたしも似たような表情を向けていた。
「……ほんと? 三奈ちゃん、俺……」その先を言わずに、誠はわたしの身体を抱きしめる。思いのほか強く、誠の香水の匂いもきつく感じられた。この日のために準備してきたことを考え、誠をいとしく思った。
 誠、苦しいよ。そう言っても、誠は腕を緩めなかった。めっちゃうれしい。今が幸せすぎて、俺死ぬかも……。通りを歩いていたひとの足音が止まる気配がして、わたしの身体に熱が走る。今わたしは選択を間違えたのかもしれない。直子を失望させるかもしれない。誠のご両親を……、そんなことが次々と浮かびあがるのに、わたしは誠の腕を振りほどこうとはしなかった。

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