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【掌編小説】片割れ

 同い年だとはいえ、男の子とうりふたつと呼ばれることに、その頃のわたしは何の嫌悪感も抱かなかった。それが、いじめの主犯格の後藤くんや、消しゴムの滓を集めることにしか喜びを見出せない田所くんだったとしたら、事情が異なっていたかもしれない。学業もスポーツも、加えて容姿も申し分ない――翔太だったから、中学に入学しても揶揄されるようなことを言われても、気にも留めなかった。あるのは優越感? いや、少しは嫉妬もしていた。どうしてわたしは翔太のように、うまくできないのだろう、と。
 そしてきっと、翔太は立派な大人になるのだと信じていた。翔太のお父さんのように、高校で教鞭をとるような、もしくは都心のビルで働く、いかにも頭の切れそうな会社員として。
 
 でも、今わたしの目に映るこの情景はなんなのだろう? 
「――カフェラテはホットでよろしかったでしょうか?」
 マスクをかけているとはいえ、愛想の感じられない目元、その眼差しは上から見下すように冷ややかにわたしに注がれる。わたしは一瞬、彼の顔を見て放心したあと、いいえ、アイスで、と遅れて答えた。連日の雨で身体は冷えていたが、冷たいものを口にしないと目が覚めないと思ったからだ。
「失礼しました。では、アイスのカフェラテと」
「あ、あと、このサンドイッチを」
「エビとアボカドのサンドですね。かしこまりました」
 彼がレジを打っているのを見ながら、わたしは心のなかで翔太、と訴えていた。別れてから十年間、やりとりしていたメールが途切れてからは五年間――その間、翔太に起こりうるありとあらゆる事情を想像して、過ごしていた。まるで自分を慰めるかのように。
 iPhoneを差し出すと、翔太に似ている店員は、無言で画面上のバーコードを読み取る。横のカウンターに並ぶよう促し、わたしの後ろに控えている客を呼んだ。
 翔太がとつぜん転校してから十年。それくらいの月日があるなら、顔立ちや雰囲気が変わっていてもおかしくない。でも、あの黒目の大きさ、くっきりと開いた一重の目、離れて下がる眉毛の形、そしてマスク越しにもわかる顔の小ささ――ひとつひとつが、わたしの知っている翔太と重なってしまう。
 もう一度、離れた場所から翔太に似ている店員を盗み見る。客が何か世間話を持ち掛け、それに彼が笑った。でもどこか、疲れているような声で笑った。
 わたしはカフェラテを受け取り、翔太に似ている店員を背に、窓辺のカウンター席に座った。

 翔太とは、小学校からの友だちだった。顔が似ているとはいえ、わたしのほうは学業成績が悪かったので、贅沢にも翔太のお父さんに月に2度ほど、勉強を教わることがあった。招かれた翔太の家は、ケーキの甘い匂いがいつもして、おやつの時間にはお母さんからお手製のブラウニーをいただくことがあった。
 見かけどおり、幸福そうな家庭だった。翔太がこちらの家に遊びにくるときは、経済的余裕のないわたしの家ではおにぎりしか出せなかった。そのことを恥ずかしく思っていたが、「ミホん家のお米、めっちゃうまい。ふっくらして甘くてさ」と翔太は屈託なく笑いながら、おいしそうに食べてくれた。そうだよ、うちのおじーちゃんの家、農家やってるんだよ! なんて、卑屈に陥らず自慢気に言えたのも、翔太のおかげかもしれない。

 翔太の転校はとつぜん、だった。しかも中学三年の途中で。きっと翔太は受験のことなど考える余裕もなく、家族の事情を優先せざるを得なかったのだろう。お父さんが真昼に車に跳ねられ、病院側は最善を尽くしたが翔太たちが駆けつけるのを待たずに亡くなった。お父さんを跳ねた側の運転手は、昏睡状態に陥り、しばらく原因が説明されなかった。意識が戻ると、明かされた事実は持病のせいでとつぜん発作が起こった、ということだった。相手に非難できる余地があるならば、まだ翔太たちは救われたのかもしれない。その事件を機に、翔太は東京から離れて、お母さんの実家に身を寄せるようになった。

 翔太、元気してる? 
 元気だよ、いちおう。ミホはどう? 高校楽しい? 
 楽しいわけないじゃん。彼氏どころか、まともな友だちさえできないよ。課題は多いし、授業はつまんないし。学園ドラマとかあんなのウソだよ。
 マジか。俺、高校生活に夢見てたんだけどな。野球部入って、甲子園目指してさ。まあ、彼女とかはどうでもいいけど。
 わたしは、高校よりも大学に期待してる。大学に入ったら、髪くるくるに巻くんだ。色は変えないけど。バイトもしたいしさ。今の高校はぜんぶ禁止だからマジあり得ない。
 大学かー、遠い未来だな。それ終わったら、俺ら就職しなきゃだろ? はあ、ため息ついている間に、どんどん老いてくな。
 やだー、大学でとまれ! 仕事なんてしたくない。子どものままでいい。
 
 翔太と交わしたやりとりで、翔太が定時制高校に通っていることがわかった。わたしはできるだけ、「高校生活のリアルは不幸」ということを訴え、翔太を絶望させないようにした。実際、わたしの高校時代は不幸だった。共学校だったが、女子同士の仲が悪く、悪意のあるゴシップを流す子もいた。わたしに関しては、お高くとまっている地味女子、というレッテルが貼られ、わたしの髪をいじる仕草を真似して笑う子もいた。わたしは誰とも親密になろうとしなかった。翔太に言ったとおり、大学に期待していた。そこには、翔太がいるかもしれない、という希望を抱いていたからだ。でも――翔太は進学せず、途中でメールのやりとりも途絶えた。嫌われたのかもしれない、結局は平凡に幸せでいるわたしをうとんだのかもしれない――そんな考えがよぎり、何度か翔太の電話番号を表示して、電話をかけようとした。でも、できなかった。
 
 カフェを後にする前に、もう一度、翔太に似ている店員を盗み見る。翔太はテーブル席を布巾で拭いて回っていた。見ていると、翔太がこちらに気づき、顔を上げる。翔太、と声に出したが、それは弱く、翔太は他の店員に呼ばれ、またレジカウンターに戻っていく。

 確かな証拠などないのに、あれは翔太だ、と強く思う。声をかければ、以前のように――翔太に不幸が訪れる前みたいに――話せるかもしれない。まるでお互いに幸福だった子ども時代の、特定の過去だけが、ふたりには残っているみたいにして。
 引き裂かれる思いに抗いながら、カフェのドアを開ける。ビルの通りを歩き、窓ガラスに映る自分の姿を見て、マスクを外した。口紅のとれかけた下唇を、きゅっと締めるように歯で軽く噛む。
 一度、ふたりでふざけて口紅を塗ったことがあった。わたしの母親の化粧台に、バラバラに置いてあったメイク道具をひとつずつお互いの顔に試してみたのだ。
 似ている顔をしているのに、わたしの顔には赤い口紅は似合わなかった。肌が焼けすぎていたのだ。わたしの後に、翔太の唇に口紅を引くと、顔が引き締まって見えた。まるで東洋の人形に見つめられているみたい、と感じた。
 翔太、きれいよ。
 わたしは翔太の顔をじっと見て、それからマスカラも試してみようとマスカラを拾った。
 翔太はわたしの腕を掴んでそれを制し、俺がきれいならミホはどうなの? と訊いた。
 わたしは翔太よりはきれいじゃない。
 そう言うと、翔太はわたしの頬に唇をあてた。柔らかで、少しだけ温かい唇だった。
 ばーか。何をつけても、俺たちはおんなじくらいだよ。
 おんなじくらい。その言葉を今でも忘れられないでいる。わたしと翔太は血が繋がっていなくとも、勉強の出来や運動神経や家柄が違っていても、同じ人間だった。
 
 間違ってもいい。恥ずかしさを覚えてもいい。拒まれてもいい。
 そんな身勝手な思いが、わたしを元来た道へと振り向かせた。歩く脚を速めて、カフェのドアを開ける。まだ翔太はレジカウンターで対応をしていた。
 翔太。
 声にする前に、翔太がこちらを向く。わたしはマスクを外して微笑んだ。

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