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最近思うこと、

時々思いついた言葉、SNSで書き綴るようにしている。

ふっと頭に閃く言の葉を、つなぎ合わせて作業だ。

昨日書いたのは、こんな言葉

いささか自虐的ではあるが。

私には学がない。
しかし、学び続ける意思はある。
若者よ、学べる機会があるのなら学び続けるべきではないだろうか。
学ぶことを止めるのはいつでもできるから。

大学全入時代とも言われる昨今では、学ぶ機会が与えられていると言えないでしょうか。

大学に行くために、予備校で学ぶ機会も与えられる、大学院への道もある・・・

大学まででも15年間、大学院で4年更に機会は増すであろう。

その間に、どれほどの知識を得ることが出来るだろうか。

家庭の事情で大学進学を希望しても叶わない人が居る中で、大学に入ることが出来るのは幸せなことではないだろうか。

なんとなく、大学に進学して、なんとなく卒業して・・・、それで終わりでは勿体なくないか?

私自身は、経済的余裕が家庭にあったならば、それこそ大学に進学して学ぶという選択肢が欲しかったが、家庭の環境はそれを許さなかった。

それでも、なんとか警察学校の門をたたくことが出来、警察官としての素養を物心両面から鍛えられたのも事実だった。

しかし、自身の中では警察官ではなく、国の行政に携わりたいという思いから、再度の就職先に選んだのが郵政だった。

高校卒なので、一種試験など受けられることもなく、三種【当時は初級試験】を受験、郵便局勤務を経て部内試験を受けて昇進、郵政局という本省の地方部局に転勤したわけですが、その間一貫していたことは、学ぶ続けると言うことだった。

試験を受ける以上、それなりの勉強も要るわけで、多少自慢めかせて殆ど勉強していないと書くものの、それなり勉強したし、それこそ、色々な問題集などを買って勉強したものだった。

中等部の部内訓練では、国鉄改革と重なった時期でもあったので、中等部の勉強そっちのけで、国鉄改革に関連する資料、新聞切り抜きなどを片っ端から集めてはコレクションするという。

本来の勉強以外のところで頑張っていたような気がするが、その根底には、「学びたい、知りたい」と言う欲望があったからだ。

それと、常に俯瞰して考えると言う思考法が身についていたからかも知れない。

10年先、20年先、どうなっているのか。

自ら仮説を立てて考えてみる、もしくは自分の理想像を描いて考えてみる。

いわゆる妄想というものだ。

君が20代ならば、30年後、40年後の自分を描いてみる。

イメージしにくければ、回りの50代、60代の人をみて、自分のなりたい50代、60代を描いてみる。

私も30代でそれを強烈に描いた、自身が50代になった時、どんな人になりたいかって。

そして、その理想型に近づくために、私は学び続けることを選択した。

色々なジャンルの本をそれこそ、乱読と呼ばれるほどに、小説などは大分処分したけれど、それ以外の本を残しておいたら、本箱がとんでもないほどの本で溢れてしまっている。

これは、自分にとってはかけがえのない財産だ。

値段ではない、自身を構成するために学んだ貴重な書物だから、まだまだ読み切れていない本も多いし、本屋へ行けばうふらりと買い足してしまうのも相変わらずだが、今も思うことはただひとつ

学んでいきたいと言うことだ。

学ぶことに限界はなく、そして、学んだ本から自ら思考することも大事だ

これからの時代、あらゆるルーチンワークはAIなりロボットに変わられるかも知れない、そんな中で人が学ぶことを忘れ、そして思考することを忘れてしまっては、自らを貶めることにならないだろうか。

今一度、自らの反省も踏まえて考えるべき時期に来ているように思うのだがいかがであろうか?

いま、起こっていることを記録し続けることで、将来何かの役に立つかも知れない。

そんな思いからだった、そして、その目論見はあたり、現在は勝手に日本国有鉄道史研究家だと名乗っている。

ただ、ありがたいことにそれを認めてくれる人も増えてきた。

そして、何よりも時代を超越して見る癖をつけていたことは、その後の仕事でも非常に役に立つことが出来たのだ。

若者よ、まず自分自身が将来どうありたいか、しっかりと見定めるべきではないのか?

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