見出し画像

アメリカ留学報告記2

2023年5月15日 執筆開始


シアトルに来て早8ヶ月が経過した。前回同様、留学中に気づいたことや考えたことを言語化する作業を進めていきたい。

留学報告記1はこちらから:
         アメリカ留学報告記_こんぶ


<気付いたこと>


①日本人の帰属意識の強さ


日本人はアメリカ人に比べて、自分の所属する組織や団体への帰属意識が強い。そしてニワトリ卵問題ではあるが、この傾向は社会の構造にも反映されている。

例えば学校。日本では部活の強制力が強く、特に運動部においては、一度でも入部した暁にはかなりのコミットメントが求められる。また、日本では高校ですらホームルームのクラスが固定されており、比較的狭いコミュニティの中で深く交流するための土台が既に形成されている。だから交友関係も自然と狭く深くなりがちである。


一方でアメリカの場合は、勿論学校や部によるものの、部活動を年単位で変えることすら不自然ではなく、○○部の誰々、といった概念も希薄らしい。それにアメリカの高校にはホームルームがないため、大学のような流動的な友人関係が人生の早い段階から形成されている。

それからアメリカ人は、友達を作るうえで、広く浅く、といったプロセスを経ている気がする。彼らは初対面が大好きである。パーティーでは参加者がそれぞれの友達を誘いまくるため、結果大半が初対面であったりするらしい。友達と遊ぶ際も、大学のグループに高校の友達を誘ったりと、とにかくコミュニティの重複を恐れない

だからアメリカ人の帰属意識が弱いというのは、別に会社をすぐ辞めるとかそういう意味では全くなく、とにかく新しい人と出会う、社交性の高いつながりを好むという意味である。



②文化的教養レベルが高い


運動、芸術、課外活動などに打ち込んでいる人が多く、みんな勉強以外の様々な分野に長けている。サッカーやアメフト、ピアノやバイオリン、ボーイスカウトにボランティアなど。勉強以外の人生の軸を複数同時に保持していて、余暇の時間の過ごし方が生産的で豊かだ。それなのに大学の勉強にも真摯に取り組んでいる。まあ、アメリカの大学受験では課外活動にどれほど取り組んだかが命なので、親に強制的にやらされているという面もあるのだが。

それでも日本は、というか俺は、勉強以外で継続して取り組んだ課外活動などないし、かといって滅茶苦茶勉強が出来るわけでもない。アメリカで出会った友達と自分を比べて、自分の人生の幅の狭さ、軸の少なさをひたすらに痛感した9ヶ月だった。


思うに、アメリカ人は文化のインプットが圧倒的に多い。幼い頃からの文化のインプット量が膨大であるからこそ、趣味や余暇活動で秀逸なアウトプットが出来る。親から受け継がれた文化的教養深さの好循環の片鱗が伺える。

しかも、興味の幅が広くて深い。例えば、アメリカ人が特に好きな映画というジャンル一口とっても、アメコミ原作から南アジアの名作、さらにAnime映画まで、とにかく多様なコンテンツの知的文化を吸収している。


ではこの原動力はどこから来るのか。単純に、異文化や他言語に対する純粋な興味だと思う。この国では馴染みのない文化や言語が自分のすぐ隣に存在しているため、文化交流の障壁が低く、様々な方面での興味が伸長されやすい環境が整っている気がする。

例えば、大学で第二外国語としてアラビア語を勉強していながら、その隣にアラブ系の友達がおり、アラブ系のStudent Associationに顔を出せば、実際にアラビア語での会話練習ができる、など。

日本ではまずエスニシティごとのStudent Associationというサークルのような集まりが存在しないのだが、アメリカではそれが世界中どのエスニシティでも起こりうるため、異文化に対してより多様でディープな興味が湧きやすいのだと思う。


幸か不幸か、国内市場向けに商売をするだけでビジネスとして成立してしまうだけの国力を有してしまった国、日本。日本で産まれ育ち、日本語だけを話し、日本文化だけを消費していれば幸せになれる同質的な環境の中で、敢えて他言語や異文化と触れ合うには相当のエネルギーを必要とするのだと思う。それでもそれらと触れ合いたい、異文化をもっと知りたい、という動機を自然な形で手に入れられたのは、留学の意義を見出すうえで十分な功績である。



③アメリカの「能動性文化」


一般に、物事に対する能動性が高い。ここで想定する「能動性」とは、「自分の目の前で起きている事象に対して、豊かなリアクションをしたり、自分なりの解釈や意見を持ったり、それを発信したりすること」である。「積極性」と殆ど同義だろう。

想定しやすいところでいえば、アメリカ人の方が授業中に積極的に挙手をしたり、政治参画への意識が高くデモなどに積極的に参加したりする、などが考えられる。今回はそれ以外に2つ例を挙げてみたい。


A. リアクションが豊かである
映画館。
この身近に潜む意外なカルチャーショックは、今も俺の中で語り草となっている。ちょっと一回アメリカの映画館行ってみてほしい。日本人的な感覚で端的にいえば、滅茶苦茶うるさい。リアクションが凄すぎる。見せ場や盛り上がるシーンの度にOHHHHHH とかWOOOAAAA とかが絶えない。

一度、すずめの戸締りを友達と観に行ったことがある。自分が渡米してから公開されたそれは、アメリカではほぼ半年遅れの2023年4月にリリースされ、あまりに楽しみすぎて初日に映画館に飛んで行った。

で、観た人にしか伝わらないのだが、主人公すずめが東北に行くか行くまいかを巡って、たまきさんと御茶ノ水駅前に停車中の車の中で揉めているシーンがあった。劇中ではそこそこコミカルに描かれていた場面で、実際自分も軽く笑いはしたが、そこでアメリカ人たちは手を叩いてゲラゲラ大爆笑していた。いや面白くはあるのだが、そこまでだろうか。新海誠作品の中で拍手笑いをする箇所がいままで存在しただろうか。

これを解釈しようとすると、アメリカ人はリアクションが豊かであるか笑いのレベルが低いかの2通りくらいだろうが、彼らは最高に面白いので後者はあり得ず、結局前者の結論に落ち着く。公共の場ではとにかく静粛にするよう教わってきた身からすると軽く衝撃だったが、自国文化発信のカルチャーを異文化の中で消費するという、中々興味深い体験の中で見出した新たな発見であった。



B. リアクションを共有したがる

Z世代特有の、或いは、自分の友達周りがそうなだけかもしれないが、面白いコンテンツがあったらとにかくその面白さを他人と共有する、という傾向が強いと思う。

その筆頭が、インスタやTiktokにおけるリール動画のシェア文化である。なんの脈絡もなく、ある日突然リール動画が10件連続で送られてきたりする。内容は、日本語を勉強してる友達から日本語のスラングを紹介する動画が送られたり、適当なYouTuberの面白動画だったり、何も関係ない猫動画だったりする。

共有機能自体は昔から勿論使ってはいたものの、このあまりにも斬新なSNS上でのコミュニケーションに、最初はかなり驚かされた。少なくとも21年間の日本人生活で、自分の周りにこんなインスタの使い方をしている友達など存在しなかった。男子校だったからだろうか。

何にせよ、この文化の輪に自分が入り込めたことにはかなりの意味があった。折角送ってくれた動画は全部観たいし、そのジョークの意味も理解したいと思うので、逐一ググっていくうちに、フォーマルな場で一切使うことのない海外ミームやスラングへの知見がかなり深まったと感じるからである。

そんな感じで物凄い体力を使っているので、即レスなアメリカの友達と比べて遥かに返信が遅れてしまうが、それでも今でも色々送ってくれる友達たちには感謝してもしきれない。マジでありがとう。




④論理と興味は言語を超える


論理と興味は言語を超えて相手に伝わる。

ビジネス、即ち、専門分野のスキルが完全に言語依存であるという、留学生にとっては相当不利な道に進んでしまった者として、会話が成立しないという最大の問題は避けて通れなかった。

言いたいことが伝えられない。
相手の言っていることが分からない。
文脈が分からないから言いたいことがそもそも分からなくなる。

悪魔の連鎖と9か月格闘し、ようやく片鱗を掴みかけたような気がするその解決の糸口こそが、論理と興味である。


論理は授業中のディスカッションやビジネスシーンなどの、高度で抽象的な会話に対して有効である。どんなに英語が崩壊していても、言おうとしていることに筋が通ってさえいれば、それは有意義な発言である。逆に完璧な英語でも、無駄な質問を重ねたり既知の情報を繰り返すようでは、ただの小泉進次郎だ。

とはいえ、実際ディベートや会議でのネイティブのスピードに100%追い付いて発言するのは、最初のうちは僕にはかなりハードルが高かった。そのため、主にミーティング前に議題を確認したり、ミーティング後に議論をまとめたりする際に発揮するのが精一杯である。


逆に2つ目の興味は、初対面の挨拶や日常会話といった、ローコンテクストで具体的な会話に対して有効である。これはもはや留学に全く関係なく、一般的に人と人が上手く関わっていくうえで重要なことに過ぎないのだが、相手に興味を持つこと以上に会話をうまく回す方法は存在しないだろう。日本と留学先で異なるのはその具体的な方法論でしかない。日本の場合は、まあ無難に相手の趣味や好きなことに興味を持つことが王道だと思うが、アメリカでそれをやる場合、相手の第一言語や文化など、つまり相手のエスニシティに興味を持つという方法が日本以上に有力であると感じた。例えば初対面の挨拶を相手の母国語で言ってみたり、相手の国の好きな歌手を挙げてみたりなど。


まとめると、論理と興味は言語を超える。論理はビジネス会話用の武器、興味は日常会話用の武器である。





(注釈)

※ここまでの根底を覆すようなことを述べるが、ここまでの内容は、日本とアメリカの比較考察のようにみえて、まったくそうではない。単に、俺と俺のアメリカ人の友達を比較しているまでであり、アメリカ人は○○、という固定観念的なこの論調は全くもってナンセンスである。西海岸と東海岸は文化的・政治的にはもう殆ど別の国かというほどの差異があるし、ワシントン大学とシアトル大学ですら全く違う。




〈その他思ったこと(小ネタ)〉


・中国人、インド人のバイタリティーすごい。めっちゃ勉強してる。科挙文化圏の人のペーパーテスト耐性すごい。
・他人を他人と割り切って他己評価よりも自己評価によって自らの幸せを定義できる人はアメリカに向いている。逆に他人からの評価を気にしたり同調圧力が好き(=同じことをするのが好き?)な人は日本の方が向いている。(と、アメリカ住みの日本人の方から伺った。まだ自分なりの言語化はできていない)
・母国語が流暢であることによる誤魔化しが通用しなくなったとき、その人の本性が出る。
日本のビジネスは治安の良さを前提としたモノが多すぎる。回転ずし、ネットカフェ、スーパー銭湯、その漫画コーナー、etc.






〈総括〉


書き始めてから7ヶ月が経過し、時既に年の瀬となってしまった。激動の年が終わろうとしている。間違いなく自分の人生の中で最も刺激的で、最も価値観が変容した1年だった。前回のnoteは丁度2022年の年末に書いたので、あの時点からの変化、という意味で言えばほぼ別人になったと言っても過言ではない。留学前は絶対に海外かぶれにならない確固たる自信があったのに、いざ行ってみれば自分もまんまとアメリカの事しか話せない単純人間と化してしまった。

変化は必ずしも進化とは限らない。日本いい国、アメリカいい国、それでいいのに。動機はただの興味本意なのに、新しい世界を知れば知るほど今まで居た世界の悪いところばかりが目について、物凄く惨めな気持ちになる。単純人間なりに広い世界を知りたいし、自分の原動力の全ては旅行なので、色々な所に出かけるのは絶対に辞めないが、知見が広がる事が孕むリスクにどう向き合えばよいのか、皆目検討もつかない。

ヨルシカの影響で「アルジャーノンに花束を」を読んだ。主人公チャーリーは、施術後に急激にありとあらゆる知識を吸収していくことを実感する一方で、彼なりの幸せが失われていくことに葛藤し続けていた。今の自分には、この本が見識を広げることの是非を問うているように感じられる。それは例えば、モノの豊さと引き換えに心の豊かさを失った現代人への揶揄のようなものに近いだろう。頭のいいひとがしあわせそうかといわれるとわからない。ではしあわせとはなんだろう。それもぼくにわわからない。なのでこのへんでかんがえるのをやめよおとおもう。


2023年12月31日 脱稿


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?