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『黒い着ぐるみを着たヘンな人』

――熊が出たんだよ。危なかった。今、逃げてきたんだ。

ぼくは自転車に鍵をかけるのも忘れて、居間に寝転んで野球を観ている父と兄に、今さっき起きたことを説明しようとした。

――何が出たって?
――すぐそこの、ほら、駄菓子屋んとこ。
――熊が? あんなとこまで来ねてば。
――マジで来てたんだって。
――本当だったら、今頃大騒ぎだべ。誰も騒いでねでねか。

言うと、二人はまた、テレビの野球中継へ意識をやった。
だけども、確かにぼくは見たのだった。
橋の袂に黒い着ぐるみを着たヘンな人がいるなぁと思って見ていたら、本物の熊だったのだ。
そいつは、最初ぼくに狙いを定めていたけど、隣を走っていた自転車が加速したので、そっちを追いかけていった。
その隙にぼくは、土手へ向かって全力で駆けて行って、再び橋の方を見たのだけど、もうそこには熊も人もいないようだった。

そのことを父と兄に説明すると、二人とも夢でも見たのじゃないかと笑った。それでぼくは、段々と自分でも嘘をついているような気がしてきて、それ以上話すのを止めたのだった。

しかし悪いことに、父が母にそのことを話してしまった。
お陰でぼくは、遠足に行きたくないので嘘をついているのだと決めつけられ、夕食時に大いにからかわれた。
堪らずぼくは、お祖母ちゃんの部屋へ逃げ込んでしまった。
お祖母ちゃんは、熱心に家具を磨いており、古い衣装箪笥だけ赤茶にきらきら輝いていた。

次の日、ぼくは遠足で山に登るため早起きをして、兄と一緒に学校へ向かった。兄は、にやにやしながら昨夜の熊の話を聞きたがったが、ぼくは真っすぐに前方を見据えたまま、黙って自転車をこいだ。

それから、予定の時間になったので、ぼくらは皆で遠足に出かけた。
先生はいつもよりはきはきしていたし、高学年も低学年も、真っ赤に染まった紅葉を見て、赤いなぁ。本当に赤い。きれいだけど、何だか怖いねなどと笑い合っていた。鳥も、あまり聴いたことのない鳴き声で喚き散らしていた。

一方ぼくはというと、殆ど黙りこくっていた。

山の上で、キュウリの味がしみ込んでいる黄緑色のごはんをかき込んでいると、同級生が先生に質問をした。

――先生、先生。遠足で熊が出ないかって親が心配してたんですけど。
――熊? ここいらに出てきたって話は聞いてないから大丈夫だろう。
――本当すか。何か親が、何かすごい心配してて。
――大丈夫だでば。先生ちゃんとこれ持ってきてるすから。

言うと、先生は胸元にぶら下げた銀色の筒を指に巻き付けて、これ見よがしにくるくる回して見せた。どうやら熊よけの笛らしかった。
ぼくは、半分腐っているようなキュウリを飲みくだしながら、昨日の着ぐるみは先生よりでかかっただろうかなどと心の中で比べてみたりした。

結局ぼくらは、誰一人熊に遭遇することもなく、全員無事に下山した。

下校の時間になると、ぼくは兄と顔を合わせるのを避けるため、いつもよりちょっと早く駐輪場に向かった。ランドセルを籠に突っ込み、ヘルメットをして、いつもの帰り道をいつもよりちょっと早く走り抜ける。

ふと、何だか見覚えのある景色だなと思った。
登下校で花壇のある道を行くのは毎度のことなんだけど、何かがおかしいような気がした。
道行く人とすれ違うタイミングや、赤く染まった木の葉が青空に揺らいでいる様子が、昨日とそっくり同じなのだけど、あまりに同じ過ぎる。

ほら、あそこの売店を抜けると、もう橋が見える。
橋の袂に黒い着ぐるみを着たヘンな人がいるなぁと思って見ていたら、本物の熊だったのだ。


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