見出し画像

『雲の侍』

彼女達は、内と外の姉妹と呼ばれていました。
姉は家の中でひねもす映画を観ており、妹は近所を自転車で走り回るアウトドア派だからです。
近所では少しばかり有名でしたが、姉が何のために籠っているのか、妹が何のために走り回っているのか、本当のことは誰も知りませんでした。

ある日、自転車籠に洗面器と着替えを入れて銭湯に出かけた妹は、はたと道に迷ってしまいました。

――ケッタイやなぁ。いつもと同じ道のはずなのに、いつもと違うとこに出てもうたやないけ。

妹はそのように一人ごちると、彼方に見える煙突の先から、橙に染まった煙が小さな人影のようなものを形成してゆくのを、ただ眺めておりました。
影は段々人間そっくりになってくるようでした。目の窪みや口の裂け目まではっきり認識できます。
妹は目をゴシゴシやって睨みつけましたが、やはり空の影は人に近づく一方でした。もうはっきり少年の姿をしているように見えます。

妹はとうとう堪えきれなくなり、いきなり自転車で駆けだしました。
するとどうでしょう。雲の少年も、そっくり同じ分だけ着いてくるではありませんか。

驚いた妹は、ギアをチェンジして、バイクの如く自転車を走らせました。人混みを潜り抜ける際に、洗面器も着替えも側溝に落ちてしまいましたが、妹は構わず自転車をこぎ続けました。
いつしか街灯の蒼い光が地面に長く伸び、妹の影をそちこちに乱反射させているようでした。

スピードを出したにも関わらず、妹はいつもより遅い時間に家へ辿りつきました。頭上には、きっちりと雲の少年を従えて。

玄関を抜けると、妹はすぐにシャワーを浴び、冷蔵庫から牛乳と馬鈴薯(ばれいしょ)の皿を取り出し飲み下しました。
筋肉痛の予感を自覚しながら、空っぽになった皿を眺めていると、夜空に浮かぶ月の姿が連想されてきます。
妹は、まだ湯気を纏った身体で階段を駆け上がり、姉の部屋と反対側にある自分の部屋の窓から夜空を覗き込みました。

なるほど、暗闇に月は浮かんでいました。けれども、雲の少年も浮かんでおりました。彼も丁度、部屋の中を覗き込んでいたのです。
月明かりに照らされて、輪郭がくっきりしたため、より具体的な像を結んでいる少年の姿に、妹は釘付けになりました。
間近で見る少年の顔(かんばせ)が思っていたより美しかったこともあり、妹は、少し頬を赤らめています。少年のほうも、自分の身体が見える妹に驚きを隠せない印象。しかし彼は雲の子なので、白い顔を曇らせるだけなのでした。

窓際で、二人は話しました。
聞く話によると、明日にも彼の仲間達が来て、この街を侵略するとのことでした。
妹は、そんなことは止めてほしいと懇願しましたが、雲の少年は、自分にはどうすることもできないのだと俯くばかりでした。

あくる日、妹は授業中も窓の外ばかり見ていたため、先生に注意され、生徒達に大いに笑われました。しかし妹には、もうそんなことはどうでもよかったのです。
空は、昼過ぎから乳白色に染まり、夜になっても暗くなりませんでした。一面淀んだ雲で覆われており、風もないのに急速に動いております。

雲人間の行進がはじまったのでした。

真夜中過ぎ、とうとう雲人間の斥候のひとりが、姉妹の家にまでやってきました。
少年同様、近づくにつれて具現化してゆく雲人間は、いつしか侍のような恰好に固まり、窓の外に浮遊しています。
あっけにとられて見ていると、斥候が口を開きました。

――我々は空に棲み分けし人類の始祖、空中人。
女、貴様はどういうわけか我々の姿が見えるようだから、これからわしが言うことを、地上の王に隈なく伝達するがよい。
貴様ら地上人の排出するガスは、年々我々の空中環境を乱し続けているが、昨夜それがついに臨界に達した。我らの空中環境はめちゃくちゃだ。
枯渇する酸素は、畢竟(ひっきょう)貴様ら地上人の呼吸が要因であるからして、我ら空中軍は貴様らを殲滅することこそが空中環境の改善であると判断し、雲爆弾の使用を決定した。
――爆弾ですって?
――安心せよ。貴様ら地上人のものと違い、我らの雲爆弾は空気を汚さない。我らが直接貴様らの内に入り込んで、脳みその奧に小さな雲を形成せしめることで、思考能力を低下させ、人生を諦めさせ、果ては自死に追い込む古よりの技。
――脳みその奧に小さな雲? そんなの、野蛮だわ。
――野蛮なのは、貴様らであろう。至る所に爆弾を撃ち込み、その都度空気を汚し、迷惑千万じゃ。
――それは、一部の人がやるのだわ。
――遅かれ早かれ、地上人は自滅する。我らは、よりクリーンな死を提案している。
――あたしら、そこまでバカじゃないわ。
――いいや、愚鈍極まりない。
――出ていけ悪霊!
――霧がかかった頭で同じことが言えるかな?

言うと、斥候の侍がいきなり抜刀し、ふわふわと近づいてきます。
妹は、咄嗟に傍に置いてあったアイロンをつかみ取り、雲の侍らに応戦しようとしました。けれども窓から手を伸ばすくらいでは、到底斥候には届かないのでした。

――無駄な抵抗はよせ。呼吸が乱れると、その分空気中の酸素が消費され、温暖化も加速する。それにここだけの話、バカとして生きるのもそう悪くはないぞ? 頭の中の雲は、貴様ら地上人の安っぽい不安や恐怖も霞ませるからなぁ。

言うと雲の侍は、窓枠に足をかけ、いよいよ部屋へ侵入していきます。
妹はアイロンを投げつけました。しかしそれは、ただ部屋の壁に三角形の穴を開けるだけで終わってしまいました。

と、その時。
壁の向こうから威嚇するような声がしました。

――うるせぇよ!

それは、妹も数か月ぶりに聞いた姉の声なのでした。
侍は空気を震わすような声音で笑っております。不快な哄笑に堪えかねた妹が、グッと息を止めて走り出しました。即座に侍が刀の向きを変え、妹の腹部目がけて水平に斬りつけました。剣は空を切り、突進した妹は、窓の外へ飛び出していきます。

――おぉ、飛び降りとは嘆かわしいことだ! まだお若いのに!

勝鬨(かちどき)を上げかけた侍でしたが、次の瞬間、異様な光景を眼にして沈黙してしまいました。

妹は、二階から落ちることなく、空中をゆらゆら浮遊しています。それはどう見ても、雲人間のよう。
一方妹が、空の上から俯瞰したのは、家の中で銅像のように固まっている侍の姿。届かぬ刃をちらつかせ、傲慢な地上人のよう。

――あんたなんか、ちっとも怖くないわ。これからもずっと、死んだつもりで生きてやるんだから!

そのように宣言すると、後ろの方で、件の雲の少年が体中から涙を滴らせて泣きはじめました。
妹は、湯気のようなものを纏った右手をグイと伸ばして握手を求めました。少年も、濡そぼった手をせいいっぱいに伸ばして、妹を迎え入れます。

と、その時、家の窓から閃光が放たれました。
いつの間にか、侍の横に誰かいます。髪の毛が伸び放題、服も小学生の頃のものをそのまま着ているようでしたが、確かに姉のようでした。

――お姉ちゃん!

妹は、空中で方向転換し、空を泳いで姉のもとへ戻ろうと思いました。
姉は、ファインダーを覗き込んでいるため、どんな表情をしているのかわかりませんが、なおもシャッターを切り続けています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?