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私達は“ケガレ”ている

日本には、“ハレ”と“ケ”という概念がある。
“ハレ”は儀礼や祭を指し、“ケ”は「日常」を表している。

300年前にイエズス会が刊行した『日葡辞書』には、“ハレ”は「Fare」と表記され、“ケ”は「Qe」と表記されていた。

高度経済成長以後、日本は“ハレ”の状態を維持してきたような気がする。だが、バブル崩壊後、二つの概念は曖昧になり、パンデミックをきっかけに、「日常」が「非日常」に変わった。

“ハレ”は“ケ”となり、“ケ”が“ハレ”となったのである。

緊急事態宣言以降、あらゆる祭事は中止になったが、映画もそのひとつだった。
映画館は次々に潰れ、今も潰れ続けている。

代わりに隆盛を極めたのが、オンラインサービスであろう。
インターネットを介した新しい映像コンテンツは、私達にとってなくてはならないものになった。
スマホの普及によって、誰もが簡単に映画を観ることができるし、その気になれば、映画を撮ることもできる。
これは、“ハレ”としての映画が衰退し、“ケ”としての映画が増大している状態ともいえる。

では“ケ”の映画とは何か。

ミニマルな個人映画?
それとも「日記映画」か?

Émile Durkheimの聖俗二元論は、“ハレ”を“聖”、“ケ”を“俗”と連想させる。

では、“俗”なる映画とは何だろう?

なるほど、YouTube等のプラットフォームには、「日記映画」を彷彿とさせる動画が日々投稿されているが、広告収入を競ううちに、テレビなどの商業フォーマットへ収斂されてしまった。結果、品質の高い、だが畢竟暇つぶしにしかならないような弛緩したコンテンツが量産され続けている。
これらの動画コンテンツを“俗”なる映画と決めつけるのは容易いが、商業フォーマットから完全に自由な映画は想像しずらいし、暇つぶしは十二分に映画の存続理由たり得るため、もう一方の極、つまり“聖”なる映画という設定の方が問題ではないかという気もしてくる。

ところで、1970年代には、“ハレ”と“ケ”の二項対立に新たに“ケガレ”という概念を追加すべきではないかという議論が出てきた。
“ケガレ”とは、日常生活を営むためのエネルギーが枯渇する状態を指す。

この文脈を込みで考えなおしてみると、登録者数を競い、バスることを願うYouTuberなどの動画コンテンツは、“ハレ”に対する“ケ”というより、「観る者」「観られる者」双方合意の元に形成された“ケガレ”的映画表現の先鋭といえるのかもしれない。


私達は瞬時に世界の出来事を共有できるようになったが、(バイアスに満ちているとはいえ)すべてを知りながら何もできないことも同時に知ってしまった。
言い方を変えると、テクノロジーによって、日常生活を営むためのエネルギーが奪われている状態といっていい。
再び“ハレ”へ戻るには、世界を知り過ぎているし、(バイアスに満ちているとはいえ)“ケ”に籠るわけにもいかないという板挟みの中で、二項対立を放棄し、“ケガレ”自体がエネルギーを生み、且つ蕩尽するような状態はあり得るのだろうか。

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