導かれるままに

昨日、ことの成り行きで 門司港へ行ってきました。 門司港にある高校に通っていたので、思い出がたくさん詰まった町。

福岡に出てきた後で再開発が活発化し レトロ地区ができあがりました。今では観光客が多く、仲間たちと日が暮れるまでお喋りしていた頃と景色が変わってしまったけど、海の香りや まったりした空気感に触れると いろいろな感覚が蘇ってきます。

一昨日のこと。心のお師匠さまと話していた時、自分を出していくというキーワードに わたしは立ち止まりました。

人と話すのは苦手というわけでもないし、数人の集まりであれば かなり喋ります。が、会する人が多くなるほど オーラを消すクセが…笑。人の話を聞いている方が楽ちん。

わたし というものを素直に表現できなくなったきっかけは高校時代にあります。

小中学校では 児童会や生徒会の委員に選ばれるような目立つ存在でした。ところが高校一年生の時、友人との気持ちのすれ違いから起こった出来事をきっかけに、思いのままに振る舞うことを封印しました。

なので それ以降 寂しさ・悲しさのフィルターを通した表現しかできなくなり、どうもそれ以降、本来の自分を生きていないのです。

門司港へと向かう車の中で そんなことに思いを馳せました。その時に抱いた感情に少々涙などしながら、「大丈夫、それもう要らない!ワタシ ダイジョーブッ!」と 高速道路に受け取ってもらいつつ…

自分が着込んだ余計なトラウマや傷を脱ぎ捨て 突き抜ける必要があること。そこから脱出する時期が 今であることは薄々気づいていました。

なので 師匠と話した翌日に その原点である門司港に行くことになったことは、とても偶然とは思えないのです。

それどころかデジャヴを感じ もう必然だったとしか思えないできごと。満月の日、もう好きに生きていいんだなぁという思し召しとして受け取りました。

自分の意思があってもなくても 必要なことは起こる。抵抗せず 粛々と受け入れていくと、自分の行く手を阻むものの存在に気づき、脱ぎ捨てるチャンスを掴めるのです。

躊躇なく 遠慮なく。わたしを脱いで わたしで生きる。力を抜いて 導かれるままに。


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