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オスカー・ワイルド『獄中記』をひらく


 三ヶ月は過ぎた。獄房の戸の外側にかかつてる私の名と刑とを記載した服役日課表は、もう季節は五月であることを告げる……
 繁榮はんえい快樂かいらく及び成功は、いづれも肌理きめのあらい、纖維せんいの月並なものであらう。しかし悲哀はありとあらゆる創造物の中で、最も感受性の鋭いものである。思惟の全野に動く如何なるものにたいしても、悲哀がそれにおうじて激しい纖細な脈動において震へないものが一つとしてない。あの薄く打ち延ばされた金箔は眼に見えぬ力の方向を記録はしようが、悲哀に比すれば粗笨そほんたるを免れない。悲哀は愛以外の如何なる手がれても血を噴く痛手であり、また、愛の手が觸れるときでさへ、痛みこそしないものの、同じやうに血を噴くものである。
 悲哀のあるところには聖地がある。いつか人々はこの意味を身にしみて悟ることであらう。それを悟らないかぎり、人生については全く何事も知ることが出来ない。

オスカー・ワイルド『獄中記』田部重治やく
昭和25年初版 / 平成元年22版 より

粗笨…粗っぽくてぞんざいなさま


 訳もすばらしいのですが、原文はさらに上を行くので、惚れ惚れしながらご紹介しておきます(^^)
 テキストは、Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)から。アメリカ版"青空文庫"みたいなサイトです。


Three months go over.  The calendar of my daily conduct and labour that hangs on the outside of my cell door, with my name and sentence written upon it, tells me that it is May. . . .
 Prosperity, pleasure and success, may be rough of grain and common in fibre, but sorrow is the most sensitive of all created things.  There is nothing that stirs in the whole world of thought to which sorrow does not vibrate in terrible and exquisite pulsation.  The thin beaten-out leaf of tremulous gold that chronicles the direction of forces the eye cannot see is in comparison coarse.  It is a wound that bleeds when any hand but that of love touches it, and even then must bleed again, though not in pain.
 Where there is sorrow there is holy ground.  Some day people will realise what that means.  They will know nothing of life till they do, ......

The Project Gutenberg eBook, De Profundis, by Oscar Wilde




 『獄中記』(De Profundis)  は、オスカー・ワイルドが(いわれ無き罪で)レディング監獄(Reading Gaol)に収監されていた時期に、恋人の"ボジー"ことアルフレッド・ダグラス卿に宛てて書いた手紙であり、散文作品としては最後の作です。

 読み始めてほどなく、ああ、なんて遠回りして、ここに辿り着いたのだろう...と、深いため息をつきました。
 というのも、私がこの数ヶ月、長く見積もるならこの7〜8年ほどかけて、うまい言葉が見つからず、ああでもないこうでもない…と詩を書いたり呟いたりしていたことが、オスカー・ワイルドの手に掛かると、こうもさらりと言葉になるのですから。思わず太字にしてしまいました…。

 悲哀には、深い色合いのベルベットにも似たなめらかな手ざわりがあって、彼が書いたような鋭い痛みの時期を過ぎると、まだ癒えない傷口を恋人のくちづけでそっとなぞられるような魅惑もありますね。きっとその甘くうずく痛みの奥に、聖なる奥津城おくつきにひっそりと眠る、もとの傷の影をみるから、なのかもしれません。
「悲哀のあるところには聖地がある」「愛の手がふれるときでさえ、なお血を流す」──そらんじて、お守りのように持っておきたいことばです。

 散文作品としては、文庫本で70ページほどですので短いですが、お手紙としては長いです。オスカー・ワイルドの真情がつづられているということなので、行きつ戻りつ立ち止まりながら、じっくり読んでいこうと思います。冒頭の箇所だけでも、まなざしでそっとふれて愛撫していたいような趣があり、なかなか先に進めません。

(↑オスカー・ワイルドに倣って耽美風に仕立ててみました(◔‿◔)♡)



"De Profundis"


 タイトルは、英語では"From the depths" となるそうで、「深き淵より」とでも訳せましょうか。ちなみに、ボードレールにも"De profundis clamavi" (  "From the Depths I Cried" ) という詩があり、ラテン語なので「絶望の淵より我呼びまつる」というふうに訳せばよさそうですね。(思わず叫んじゃうボードレールと、それでも叫ばないオスカー・ワイルド。)

 もとの題材は…と調べたところ、カトリックの伝統的な祈りのフレーズで、旧約聖書『詩篇』第130篇に由来するそうです。ちょっと覗いてみましょうか。

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。

(以下略)

新共同訳


 読めないけどラテン語も。

De profundis clamavi ad te, Domine:
Domine, exaudi vocem meam:
Fiant aures tuae intendentes,
in vocem deprecationis meae.
Si iniquitates observaveris, Domine:
Domine, quis sustinebit?
Quia apud te propitiatio est:
et propter legem tuam sustinui te, Domine.
Sustinuit anima mea in verbo eius:
speravit anima mea in Domino.



 それにしても、このふたりを並べると《両手に花》の気分でうっとりするのですが(笑)、時に苛烈極まるボードレールに比べて、オスカーさまはやっぱり静かでリリカルなところもあり、まさに核として"唯美"の陰影をたたえていますね。(アンデルセンもそうですが)女性的とも言えるソフトなところがあり、居心地が良かったりもします。英語の澄明な響きも、彼の持つ直感と洞察力を引き立てているように思います。
(そう考えると、ボードレールは、自らの強すぎる男性性の餌食になった人のようにも思えてきますね。なんとなく、"自己免疫疾患"めいているような...)

 唯一同意しかねるところがあるとすれば、ワイルドWildeという名前が似つかわしくないこと、ぐらいでしょうか(わりと真面目に言っています。)
 誰をどう呼ぶかというのは、オスカー・ワイルドが『真面目が肝心』で書いているように、ひとつの大問題で、特にnoteを書いているときには少々困ってしまう私です。ボードレールは(文字数の多さから)苗字呼び捨て(🙇)以外にあまり考えにくいのですが、ワイルドだとイメージ的に結びつかないし、オスカーだと馴れ馴れしいので、「さん」とか「くん」とか考えてみるものの、強いて言えば「さま」か…?(響きとして収まりがよい) でも、別に崇拝しているわけでもなくて…結局毎回オスカー・ワイルドとフルネームで書くことに。
 ジャンヌさま(ジャンヌ・デュヴァル)を「ジャンヌ」よばわりするのにようやく馴れてきた私です。「さま」付けは、他人から見るとやや奇異でしょうしね…🤔

 脱線してしまいましたが…

 『獄中記』は、味わって読むと果てしなく時間がかかりそうなので、読み始めたばかりなのにもう記事にしてしまいました(^^ゞ
 《口を開けば名言》と言いたくなるほど名言の多いオスカー・ワイルド氏です。




 田部重治訳の『獄中記』はもう中古本しか手に入らないのですが、第二次世界大戦終結後5年で発行されたという歴史的背景にも思いを馳せたくて、リンクを張っておきます。
 「良い」ランクで、経年劣化は免れないものの、状態は充分良かったです。商品ページと届いた本とでは、表紙が違ったので、びっくりしました。私のはリバイバル復刻版みたいです。

(現在、カード形式でのAmazonへのリンクが張れないため、写真を撮ることに...運営さんに問い合わせたら、復旧まで時間がかかるそうです。)


https://amzn.to/3Vcm3Xv





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