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夜を歩く

あれは沖縄のどの島だったろう。
本島からずいぶん離れた、小さな島だった。

一日思うさま泳いだあと、宿でシャワーを浴びて着替え、明るい夕方の空の下、バスに乗って夕食を食べに出かけた。

* * * *

沖縄のごはんと音楽とおしゃべりをたっぷり堪能してお店を出る。
バスの時刻表を見ると、次のバスまでまだ少し時間があった。

すでに陽は落ち、昼間の強烈な熱気は涼やかな夜風に変わっている。

歩くのも気持ちがいいかもしれないね、お散歩がてら次のバス停までぶらぶら行ってみようか。一本道だし、まだ時間もあるし。

そんなことを言い合って、わたしたちはのんびり歩きだす。

ところが「次のバス停」が思いがけず遠く、歩けど歩けどなかなか辿り着かなかった。
一本道の両脇の街灯は、だんだん少なくなっていく。

あれー着かないね、などと言い合ううちに、うしろからわたしたちが乗るべきバスが走ってきてしまった。
バス停はまだ見えない。

あー、これは走ってもバスには追いつけないな、次のバス決定だなあ。
そんなふうに思っていると、わたしたちを追い越したバスが、少し先で停車した。

* * * *

あれ、と思って近づくと、ぷしゅー、と平和な音を響かせて扉が開き、「乗る?」と運転手さんが言う。

え。もしかして、わたしたちを乗せるために停まってくれたの?

あんまり驚いて、「い、いいんですか」と間の抜けた質問をしてしまう。

「うんいいよいいよ、こんなとこ歩いてないで、乗って乗って」と沖縄特有のやわらかなイントネーションで言い、運転手さんはニカッと笑った。

* * * *

「バスがバス停じゃないところで停まってくれた」という現実になんだかふわふわしたまま、わたしたちは座席に座る。
がらんとした車内には、わたしたちのほかに乗客はいない。

バスを発進させながら「どこまでいくの?」とその運転手さんは訊く。
わたしたちが宿の名を告げると、ああ、あそこね、と言い、すいすいバスを走らせてゆく。

いまや道には街灯一つなく、ガラス窓の向こうはまっくら闇。
ただバスのヘッドライトだけが、道をひっそり照らしていく。

すごいね、やさしいね、バス停じゃないところで停まってくれるなんてもはやタクシーだよね、などと小さく言い合っているうちに、すうっとバスが停まり、ふたたび音を立てて扉が開いた。

あれ、と思う。
あれ、ここ、バス停じゃない。

「ついたよー」と、のんびりした声で運転手さんが言う。

「ここがその宿から一番近いバス通り。脇道には入れないから、ここでごめんね。ほらそこの左に入ってく道ね、あそこを歩いてまっすぐいけば宿だから」。

えええ。
停まってくれたの、またもやバス停じゃないところで?
ここが、わたしたちの宿に一番近いポイントだから?

あまりのことに半ば呆然とし、「あ、ありがとうございました」という全然足りないお礼の言葉をなんとか絞り出し、バスを降りる。

* * * *

暗いから気をつけてねー、という言葉を残し、バスは走り去っていく。
残されたわたしたちは、驚きと感謝でいっぱいになりながらバスを見送り、しばらくその場に立ち尽くす。
まわりに響く虫たちの声。

しばらくそうして立ち尽くしたあと、わたしたちは周りの暗さにやっと気がつく。

夜は、暗かった。
ほんとうに、暗かった。

なにしろ顔に近づけても自分の手が見えないほど暗いのだ。
目をつぶっても開いても、まったく変わりがない。
目が慣れれば見えてくるかとしばらく待ったけれど、暗さは一向に薄らがなかった。
光がないというのはこういうことなんだ、と初めて知った。

宿に向かう道の真ん前で運転手さんが降ろしてくれたおかげで、どの道を進めばいいかは辛うじてわかった。
お互いの存在を声でしか確認できないので、わたしたちはどちらからともなく手をつなぐ。

暗いね。この暗さ、なんだかものすごいね。
うん、道も見えないし、これ目をつぶって歩いてるのと変わんないよね。
まっすぐ歩いてるって、どうやったらわかるかなあ。

途方に暮れ、ふと上を見上げて息をのんだ。
広がっていたのは、空を埋め尽くす無数の星。

地上よりもはるかにあかるい夜空が、そこにあった。

森を切り開いてできたその細い一本道は、両脇を背の高い木々に囲まれていた。
上を見上げるわたしたちの視界には、真ん中の夜空を挟んだ両脇に木々の黒々とした影が見えた。
このあかるい夜空に沿って歩けば、それはつまり道を外れずに進んでいるということなのだった。

* * * *

ひたすら上だけを見て歩く、という体験に、わたしたちはたちまち楽しくなって笑った。
空を埋め尽くすおびただしい星、数分おきにきりもなく流れる流れ星。

夜がこんなに暗いなんてね。
あのまま歩いてたらわたしたち、どうにもならなかったね。
うん、運転手さんはきっと、そのことがわかってるから停まってくれたんだね。

あたたかい親切と夜の暗さと星空のあまりの美しさに、別世界にきてしまったような気がした。
わたしたちはひっきりなしにしゃべり、笑い、歌いながら歩いた。

やがて宿の明かりが見えてきたとき、ほっとすると同時に少しがっかりした。
この魔法の時間がもっとずっと続けばいいと、どこかで思うような夜道だったから。

* * * *

宿のオーナーには、「懐中電灯を持たずに出かけたの?部屋にあったでしょう」と呆れられた。
東京の明るい夜に慣れ、懐中電灯をつけないと歩けない夜道があることなど想像もできなかった自分たちを思ってわたしたちはまた笑い、そんなわたしたちを見てオーナーも笑った。

あしたは必ず持って行きます、とオーナーに請け合って部屋に戻ったわたしたちは、心も体も喜びと心地よい疲れに満たされて、幸せな気持ちで眠った。

* * * *

お読みいただき
ありがとうございました。

どうぞ素敵な一日を!

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