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放浪文化人類学者のはじまりはじまり⑤-イスラムの正解はそれぞれにオンリーワン?

トルコ社会は、ウイグル族にとっては、理想的なイスラムの社会ではなかったのだろうか。そもそも「理想的なイスラム社会」などというもは、あるのだろうか(正統カリフの時代とかいわないでね…)。

わたしは一時期、トルコ系のワクフが所有していたウイグル族の女子学生たち5人の住むアパートで空きベッドを借りていた。
そのアパートの子3人と、その友達2人(ウイグル族、学生)とウイグル・レストランでの断食あけの食事をとっていたとき、カディル・ゲジェスィーをどうすごすかという話になったことがあった。

カディル・ゲジェスィーとはアラビア語の「ライラ・アル=カドル(のトルコ語)」のことである。

「預言者ムハンマドに初めて啓示が下されたとされる夜。力の夜、御稜威の夜、定命の夜ともいう。クルアーンでは〈われらは、これを御稜威の夜に下した。御稜威の夜が何であるかを、何が汝に知らせるのか。御稜威の夜こそ千か月にもまさる。この夜、もろもろの天使と精霊とは、主のお許しを得て、すべてのご命令をもって光臨する。夜の明けるまで平安あれ〉(Q97:1-5)とされ、また〈祝福された夜〉(Q44:3)ともいわれる。ハディースでは、ラマダーン月の最後の10日のうちの奇数日の1夜であるといわれているが、27日の夜とする学者が多い。ムスリムにとって特別な夜であり、敬虔なムスリムは、ラマダーン月の月末の奇数日にはモスクにこもって礼拝や読誦を行う。」

青柳 2002 「ライラ・アル = カドル」『岩波イスラーム辞典』p1034,岩波書店。

同じアパート住まいではないウイグル族の女の子が、カディル・ゲジェスィーは、断食月最後の10 日 のなかの奇数日のうちの1日を指すということを教えてくれる(合致↑)。
そして、その日については「アーリム達が27日だと予想したようだが、はっきりわかるものではない」といったのである(……合致↑)。

なんだとおい(心の声)。
聞き捨てならんぞ。
「アーリム」などあてにならんというのがイスラム教徒のいうことばなのか。

「ウラマーとは、イスラーム諸学を修めた知識人。ウラマーは複数形で、単数形はアーリム。(以下略)。)」

小杉 2002「ウラマー」『岩波イスラーム辞典』204、岩波書店。

このことばに過剰にわたしのテンションがあがってしまったのは、日本のイスラム研究で「アズハル大学(エジプト)で学んでアーリムになった日本人の先生」がおられ、いろいろあったというのがある(発言力がでかい)。なのに「アーリムなどかまうこたぁない」とあなたはいうというのか(肩書きにひれふしたりしないウイグル族)。
そしてその子はまた「それは最後の10日のなかの奇数日であればいつでもいいことだ」ともいう(合致↑)。そして彼女らは同じ席で、昨日がその夜ではないかと走り回っていた子らもいたということを話していた。

これは、彼女らが「アーリム」というイスラーム知識人のいうことばを、従わねばならないものとはみなしてはいなかったということを教えてくれる。「アーリム」のいうことであっても、聞くも聞かぬも個々人の胸先三寸。そこにそのことばをうけとり守る信徒といった、その「正当性」にともなう影響力や、同調圧力のような構図はみられない。

またこのレストランのテーブルのガラス板の下には断食をめぐる情報を書いた紙、すなわち断食月間中のすべての礼拝時刻、日程等が記された紙がはさまれていた。これは、断食月間中になると菓子店などそこら中でくばられていたものなのだが、そこにはカディル・ゲジェスィーに関しても26日と27日のあいだの夜であるとの記載がはっきりなされているのだが、これも、やはり彼女らは依拠すべきものとはしていなかった。

断食月のスケジュールを書いたチラシ。日本人としては「わ~い」と従ってしまいそうになるのだが…。
「カディル・ゲジェスィー」の日の夜のモスク(女性のいる場所から撮影)。
彼女らも礼拝のイベントに参加したかったのか、結局27日に行った。

アーリムのいうことって、どうでもいいの?(肩書きに弱い日本人)
カディル・ゲジェスィーって紙にしっかり書いてあるんですけど…みてないの?それともみないの?(書いてあるものにも弱い日本人)

こういう紙をみつけても、みなこれをみて行動している!などと思って現地をみてはいけないのだな…(こういうことをみつけるのが人類学的調査です)と思ったりはするのだが、情報って共有しないの?そこら中にあるそれを共有しないで生きるって、できるもんなの?どうやってそれ、できてるの?ということが、現地では実はしょっちゅうなされていたりする。

わたしには、イスタンブルに、ひとりで留学の準備をしながら現地のウイグル族の会社ではたらいていた友人がいた。

長くなってきたので、その友人の名を「ヘイレンギュル」(仮名)としようと思う。
ヘイレンギュルはドバイの元イマームの妻氏と義烏で共にはたらいていた友人同士であり、夫妻の家にわたしが滞在できるよう紹介してくれた人物なのだが、わたしとヘイレンギュル、そして元イマームの妻氏とのあいだでは、こんな会話がおこなわれたりしていた。
こういう会話が、まじめに、リアルに聞けるのが、フィールドワークというやつなのである。


断食月がちかづいていた7月22日(上記のチラシをご覧ください。8月1日の開始になります)、わたしがヘイレンギュルに、

「断食はいつはじまるのか」

と聞くと

「29日からだろう」

という。

(ちなみに、ウイグル族で、日常的なトルコ語に不自由している人はほとんどいない。ウイグル語はトルコ系言語なので、動詞の活用や、「水」や「牛乳」、1~10の数え方etcといった基礎的な語彙が、トルコ語とまったく一緒なので、現地の人によれば「だいたい3か月ぐらいで」誰でも話せるようになるのだという(わたしも半分程度は聞いてわかる))。

え、断食の始まる日、「知らない」の?(そこでつっこまない)。

しかしヘイレンギュル、同じ日にドバイの元イマームの妻氏に電話し「断食はいつはじまるか」と聞く。
元イマームの妻氏、

「29日か30日のあたりだろうと思う」

とこたえる。

え、ドバイの元イマームの妻氏、「知らない」の?(わたし)

7月27日:それから5日がたって、わたしが再度ヘイレンギュルに聞くと、
ヘイレンギュルは

「30日からだろう」

という。

そこから3日がたって、わたしとヘイレンギュルが、彼女の住んでいるアパートのルームメイトののトルコ人と散歩にでた際、ヘイレンギュルがそのトルコ人女性に断食は明日からだろうかと聞く。 トルコ人女性は

「明日の夜からだ」

と答えた。
8月1日:断食開始(ヘイレンギュルも)。

これは、ちょっと説明が煩雑になる事例になる。

断食の開始というのは、厳密にいうと住んでいる土地から新月が「見えた」かどうかではじまる(自分で「見る」ようにする人もいる)。だから、エジプトとサウディアラビアでは開始日が異なっていたりするわけなのだが、
そういうときに、実際にそれを見て、あるいは、信頼できる人の「見た」という証言を待ち、それ以外の言葉には、どんなにうやうやしくイスラムの祭事を祝う文字が書かれていても、耳をかさないということができるのが、かれらなのである。

かれらを動かすのは情報ではなく、経験なのである。

チラシのカレンダーの示す期日は、あっていたし、チラシもそうだが、わたしはトルコにおける断食の開始が8月1日だとインターネットで調べ、はなから「知って」いた。

しかし、こういう「知り」かたは、「知った」とみなさないのがかれらなのである(難しい。文字が空中を浮遊しておらず、親しい人たちの血肉のしみこんだものだけがことばとして聞こえるようになっている、というか)。日本人でいう、わたしたちには等しく共通する正しい答えが「ある」と信じるという姿勢が、かれらには無い。
わたしが日本人にイスラム教は適していないと思う理由のひとつはここである。

文字情報を共有して、それを守っているか、互いを横目でみあったりアドバイスしあったり、「正しい」情報はわたしにもあなたにもただひとつがあると確信して共に探しあう人間にはとことんむいていないのが、イスラムを信じるということなのではないか、とわたしは思っている(きっと日本人には日本人のイスラムがあるんだろう…とは思っているが、それにわたしは興味がない。ex『越境の人類学』工藤正子,東京大学出版会等)。

ヘイレンギュルが参照していたのは自分の近くにいた「誰か」であった。そしてそうした「誰か」からの情報も、ヘイレンギュルの行動を即時支配するものとはなっていない(わたしのほうは、一瞬で印刷物やインターネットに支配されている)。

「正しい知識」がどこかにあるとはみなさず、身近な、わたしの近くでわたしを思う「誰か」とのあいだですりあわせをおこないながら「正答らしきもの」(「正答」ではないし、正答である必要もない)ににじりよっていくそのさまは、食事をめぐってみてきた、社会には不信の目を向け、 近くの誰かの意見を参照しながら食品を選びとっていた人びとのありかたと一致したもののようにわたしにはみえる。

こうした情報のうけとりかたは、スカーフの着用といった点においてもみられた。このときみられたことは、多数のトルコ人女性たちも巻き込んでいたことであったため、トルコの人々のイスラム事情についてもいくばくかの説明をしてくれる。

ヘイレンギュルはトルコ人女性13人とアパートのルームシェアをしていた。ちょっと大きめのファミリーサイズのアパートの寝室に入るだけ2段ベットがいれてあり、郷里や実家をはなれて勉強したり仕事をしたりしている女性たちがルームシェアをしていたのである。ウイグル族同士で暮らす子らもいるのを知っていたわたしは、何でそっちを選ばなかったの?と聞いたら「アワレチリック(面倒だから)」といわれた。

アパートのベランダからみえた風景

ところで、元イマームの妻氏は、わたしがかれらの家にいるあいだ、常にスカーフを着用していた。

「イスラム教徒の女は異教徒の前では女の前でも男の前でいるようにスカーフをしていなければならない」

といっていた(思い起こせばこれは数少ないドバイらしい「正しい」イスラムだったかもしれない)。その話をルームシェアをしていたヘイレンギュルに話した後、

機会があってヘイレンギュルのアパートに泊りに行った際、アパートのルームメイトのトルコ人女性の多くおよびヘイレンギュルが、不自然なまでにわたしの前でスカーフを外さないということがみられた(ここで意に介さず、スカーフをしていないトルコ人女性もひとりみられた←ここ重要)。
えっ?!と思い、わたしはヘイレンギュルに

「わたしの前でスカーフを外さないのは元イマームの妻氏が“女でも異教徒の前では男の前にいるように”といっていたとしたあの話のせいなのか、ルームメイトにもその話をしたのか」

というと

「そうだ」

という。
その話をした元イマームの妻氏とは「暑くてもあなたというイスラム教徒でないひとがいるから、私はしないでもいいスカーフをし、袖の長い服を着ていた。そうでなければ肌を出した服装で気楽に歩いていられたのに!」という、ちょっと喧嘩モードでした会話であったため、わたしはこのアパートを不快な場にするために来たというのか(それと同時に“わたしは男か?!わたしがかれらの頭をみるとなんかの欲にかられるとでも…という倒錯を感じた[ハイ、どこにでもおるヘテロ女性ですんまそん])。で「来なければ良かった」 「出ていく」「出ていかないで」とひと悶着をした後、わたしはわたしにいるという”男”を閉じ込めるために目のうえにスカーフをしばりつけて寝る。

朝になっても、わたしは「この“男”は何も見ることはないから、どうか気楽にすごしていてください」とスカーフを外さないままでいると、ヘイレンギュルおよびトルコ人女性らがうろたえて、

「目隠しを外して、これは私たちの決定だから(英語)」

といってきたのである(わたしはトルコ語が若干しかわからない)。

そしていわれたのが
「多分異なる学派の意見や異なるアーリムの意見なのだと思う。わたしたちはそれを学ばなければならない。ひとりのひとに聞いただけで何かを決めないでほしい(そりゃこっちのセリフだよぅ…)。とにかくもう目隠しは外してほしい。」といわれたのである。

そしてわたしは、こわごわスカーフを外し、直目でかれらを見た。
この日以来、彼女らがわたしの前でスカーフをしてすごしているということはなかった。  

ここにみることができるのは、まずひとつめに、ヘイレンギュルがイマームの妻氏に断食日を聞いていたように、“誰かに聞いた”ことがかれらの行動に影響をあたえるものになっていること、
ふたつめに、そうして得られた情報は、女性たちのなかでスカーフをしていない人物がみられたように、全員をしばる「規範」とはみなされていなかったこと、
みっつめにそうした情報が、実質的な効果とはかかわらずに実行にうつされ(わたしがかれらの髪をみてもどうにもならないよぅ…)、それが「知らねばならない」ということを根拠に、とりさげてもいいものとしてあったということである。

そこでわたしが一番感じたのは、イスラムとは周囲との関係に齟齬を生じようが何が何でも神の命ならやる、という盲目的で頑強なものではないのだということである。それは、わたしのような、かれらの関係における余計者の最たるものに対しても、よりよくつきあうための知恵として実行されているのではないか、と思えたことである。


それが、なんでもありのゆるゆるになって、解体されない絶妙のさじかげんこそが、日本人にはやっぱり向いてないんだよなぁとわたしには思える(大変申し訳ない)。
「規範だよ」「規範じゃないよ」の真ん中の意味はなんだろう。それは神とわたしのあいだでひとりで考え(オンリーワン)取捨選択していくことにおいて真剣、ということだと思っている。そしてその模索の過程を周囲は尊重し、また尊重できる関係がそれだとおもっている。
それは、わたしは規範を守っているよ、ということをして「みせる」ということの対極である。

元イマームの妻氏の家にいたとき、外であうといつでも黒い大きな布をかぶっていた近所のウイグル族女性がいたのだが、

参考写真。イスラムの勉強会にて。

ある日、こちらに挨拶に、さっぱりとした半袖の花柄のブラウスとタイトスカートで戸口にあらわれて、度肝をぬかれたことがある。そんなわたしをみた元イマームの妻氏は「彼女は新疆に帰るんだよ」と平然(←ここ重要)といった。

確かに、新疆に黒い布のかたまりのまま帰ることはできないのだが(共産国なのでいろいろと)、
その女性は「外の人に姿をみせない」という「規範」を守っていたのではなく、神とのあいだで周囲との関係を変えているだけなのかと愕然とした。


かれらにとって、ことばとしてある「規範」は、誰もがてをのばすことのできる共有された情報となって,誰もが従うことをもとめられるものとはなってはいない。イスラムとは唯々諾々、「絶対帰依」のことばに連想される、頑迷な教条主義ではない(礼拝等は義務にあるとおっしゃる方もおられると思うが、それさえも現地でみると様々である)。

わたしはこの「自身で判断する」が基盤におかれた宗教的枠組みが、西欧における「人権」の基盤にもなっていると思っているが(同じ系列の一神教なので、枠組みは似ている)、それがイスラムではより徹底されているとも思っている。


かれらは日常的 に「規範」のような社会知を形成していない。そして、かれらは、社会知がイスラムの名を冠してあらわれようとも、それには支配されない。

イスラームが「規範」としてかれらに遵守を求めるものではないのだとすれば、それを「信仰」ということばに帰す以外において、かれらにとってイスラムであるとはほかにどのような意味のあることなのであろうか。


to be continued.



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