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アラブでラクダ飼いにあいたいー文化人類学的調査で#行った国行ってみたい国

最近たてつづけにアラブの牧畜民に関する本を読んだ。

鮮烈だったのが『ティブル』

これはすごい。
よく出版する気になったし、
よく翻訳する気になったし、
何で日本にあるんだろう…というくらい謎な本。

トゥアレグ族(ベルベル系の牧畜民、リビア他に居住)のひとが書いた小説である。
青いターバンをまいて、ラクダにまたがった勇猛果敢な人びと、
想像するだけで旅情があおられる。


のだが、


なんだこれはw


主人公は貴族階級らしいが自身の狭い視野からの判断のみでつっぱしるつっぱしるつっぱしる。
いや、もっと人の話を聞けよ、
神とか呪術師とかいくまえに人の話を(略

よくラクダの病気治ったなぁ…病院……はいかないか……。

身体能力はすばらしい、
勇猛果敢、よくわかる、
だけど主人公は、自分の視覚と聴覚からの情報だけで、思い込み、嘆き、どんどん動く。
自分のまわりの人間はそのほとんどが「悪い」(妻子外国他)
「良い」ポジションには動物、あるいは「神」しかいない(幻のように)

という日本人的には視野狭窄ともいうべき暴走の連続のはてになんともはやな結末を迎えるのだが、もっと…話し合っては……?とあっけにとられているうちに終わる。

彼の世界には神と自分しかいないのがよくわかる(イスラムは理論上はそう)。
だけど一時期その界隈(研究)で一世を風靡したスーフィズムや聖者信仰、そしてイスラム以前のものと思われる「偶像崇拝」がまったく違和感なく同居しているのに、イスラムの神髄はやっぱりその雑駁のなかにあると(わたしには)思えるあたり、リアル・サハラっぽくて実に興味深い。

でもはるばる実際に会いに行った人びとがこんな視野狭窄のひとだったらちょっといやだな~…と思うのだが、そこでもやはり「自分」というフィルターをとおしてそれを読み直してみたい、と思うのである。

というのは、そこには砂漠という静けさ(視覚、聴覚からの情報が少ない)のなかでの暮らしこそが理想という救いもまた描かれているからである。砂漠とオアシス、すなわち孤独と人同士の社会のあいだとの往還こそが、やはりイスラムのいずる源泉なのかとわたしなどは思う。

だいたいイスラムはいつもこういった日本とはかけはなれた感性をもつ人びとのものだった。


市井のひとびとのイスラムのなかに「何で」と思うことをみつけたとき、研究者は「無学な底辺民め」といった見下しの視線をなげかけることがままあった。
自分(日本人研究者)は日々イスラムの高尚な文献資料を解読しているのだから、と。


でもなんで、なんで市井のひとはいつもこうなの、という問いが2000年代になって出版される本にも連綿と書いてあるのをみると、わたしは隔靴掻痒の感におそわれる。その理解のズレは、人びとの日常のなかの宗教をみることによってただされるとわたしなどは思うんだが(イスラム研究は文献研究が主流)。



もう一冊、最近読んでおもしろかったのは、『The Rwala Bedouin today』。

こちらはかなり折り目正しい文化人類学的研究書。
ベドウィン研究は日本でもされている方はいらっしゃるが、調べてみると英語圏のひとびとによる調査資料は滅法数も種類も多いことがわかる。西欧の人、ベドウィンめっちゃ好き(政治的な理由もあるかと思われるが)。
本書はベドウィン研究では古典のようだけれども、イスラムの人びとと日本のあいだの例のズレを言語化した、わたしにとっては貴重な民族誌だった(西欧と日本のあいだにもズレはあるので、西欧のひともこれをズレだと思って読めるのか…、と2重3重のフィルターでおもしろい)。著者は、サウディアラビアのルワラ・ベドウィンの調査だけでも4年弱、前後のヨルダン他での調査をふくめると7年強という、超長期のフィールドワークをおこなっている。

調査が長くなるにしたがって著者は「前半に得たデータの解釈は、その多くが間違いだと気づくことができた。後半は、目のまえでおこっていることがわたしたちのためにわざわざ「やってみせられた」ことじゃないということを見分けられるようになり、前半のデータの再検証もすすんだ」と書いておられる。
現地なれしていないときにとったデータやインタビューはほとんどが役に立たない。このことは、文化人類学者ならだれもが胸中においておかないといけないことだと思う。しかし7年の調査とは…長いなぁ…(敬服)。

本書で興味深いのは、ルワラ・ベドウィンの人びとが、「系図」を互いをしばるためではなく自己肯定のためにこそ言及しているというところかと思う(生成系図)。事実の捏造まではしないものの(そこもまた興味深い)、その人間関係のまとまりのとらえかた、呼びかけによって示す範囲は、文脈に応じて刻々とかわる。人びとは文字情報に支配されるのではなく、自分のおかれている現状を肯定するためにこそ、もっとも都合のいい単位をつかみだすのだ。だからそれを日本語の「系図」、すなわち一族の公式のメンバーシップだなどと思ってよんだら大間違いである(一瞬の特定の利害を言語化したものにすぎない)。

その「生成」の過程は、時間の経過もふくめた継続的な会話とつきあいの観察のなかからこそみいだされる。というよりそこでふんばらないとみえてこない、はず。文化人類学というフィールドワークの学問の真骨頂である。

これを読んだときにわたしの脳裏にちらついたのは『コーラン』だった。

イスラム教徒にとっての『コーラン』は、実は人びとをしばっているのではなく、人びとを肯定するためにある(わたしの調査の結論)。

それもまた、会話とふるまいの時間をかけた観察のなかからしか見えてこなかった。とわたしは思っている。

わたしはといえば、日本で、人同士のつくりだしたルールや慣習や伝統にしばられて正しいものが何かなんてもはやいう余地もない、そんなふりつもったもののなかに生きていると思う。だが、ベドウィンの人びとはおそらく『コーラン』にさえも縛られていない。世界はいまここにいる自分のためだけにあると思っている。それは、『ティブル』に書かれているような視覚と聴覚の情報に特化した、自分という名の牢獄のようなものかもしれないが。


ラクダとは、たくさん所有していても、乳はのみきれないし、放牧中の略奪にそなえて警護するにも家族の手に余る。だから人に与え、寛容さをみせつけることで評価をたかめるということに価値がおかれた。そうしてベドウィンの人びとは気前よくあたえ、部族や政府とのあいだで自分たちの主張を通す、独立した立場を保持してきた。金銭をためこむことなどということはそこでは恥ずべきこととみなされている。そんな絶えずかろやかに動きつづけることを理想とするというベドウィン社会を、正直うらやましいなと思うこともある。

『ティブル』のなかに描かれているのも、ルワラ・ベドウィンをめぐって描かれているものも、どちらも独立と自律を得ることを理想とする、ということで一致するのは大変興味深いところなのである。それが小説と外国人研究者による民族誌という異なるコンテンツであるのにもかかわらず、である。


イスラム世界を旅していると、マジ!困っている!というときにはたくさんの助けの手がのびてくるのがみえる。日本では到底考えられない気安さでだ。日本だったら警察行けといわれる以外にないだろう。あるときにはそこであっさりと高額の紙幣が手わたされたことさえもある(アブダビとラワルピンディ―で…)。日本では一度も遭遇したことのないその助力を、手のひらに受けるとき、わたしは日本とここのあいだに立って、まだ、やれることがあるでしょ、この先をわたしはみたいんだ、と思うのである。




というわけでいまわたしの行ってみたいというか年単位で住んでしまいたい国はサウディアラビアである(トゥアレグでもいい)。ベドウィンのテントに間借りしたい…!
お題の応募期間には全然間に合わなかったが、「#行った国行ってみたい国」でした( 笑)


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