見出し画像

ピダハンを読んで

 ピダハンを初めて読んだ時は、衝撃的でした。宣教師として、アマゾンに行った著者が、言葉の問題、文化の問題、そして自身の信仰までが崩される。

 著者は信仰を広めるためにきているので
、当然、神に救われた話をピダハンにするのだけれど、

「お前はそいつにあったことがあるのか?」
と聞かれる。

 現代日本人の発想なら、神はいるか、いないか? 信じるか、信じないかの2択になることが多い。または、イエス・キリストを信じるか、ブッタを信じるか?など。
 (それも、日常会話では、中々、宗教の話は言わないですけど)

神仏に対して、
「そいつに会ったことがあるか?」
と言う質問は、日本人の会話でも文章でも、聞いたことも見たこともない。

 例えば、
「四国の八十八ヶ所まいりに行ってね~。」
と、友人が言ったとする。そこで、
「弘法大師(空海)に会ったことがあるのか?」と言う人は、まずいない。

 よっぽどの修行した高僧なら、
「夢のなかで会った」というかもしれないけれど。

 まとめると、ピダハンは、直接の実体験だけを重んじる。今風に言うと、1次情報を重視する。

 ピダハンを読むと、神仏のでき方がよくわかる。私は、宗教は、火、石器、言葉と遜色ない発明品なのでは?!と思うのだ。

 原始人だった頃の人間は、ピダハンと同じように、ライオンが藪から出て来たら、蛇に噛まれたら、と悲観的な予想をして、生き延びてきた。と思う。

 過酷な環境から逃げなければ、生きて行けない弱い人間たちは、今よりももっとシンプルな不安が強かったのではないだろうか?

 そこで、その強烈な不安を消すために、神仏が人間の脳の中で作られたのではないだろうか?

 現代社会で生きる私達は、科学の進歩で常に悲観的な災害、事故、事件の情報にさらされている。
 遠い国の地震や戦争のニュースを聞いて、
「悲しくなるわよね。」
と言う知人に、
「直接、見たの?怪我した人にあったの?」
と、言う人はまず、いない。

 不安と危険予知が、人間を長生きさせてきたのだけれど、不安がまた、うつ病と言う病を深刻化させている気がする。

 私は、インスタとX(旧Twitter)をしていたが、先日、Xをやめた。

 着物の情報を集めるのに、とても便利で、マニアックな知識も吸収出来るし、反応が速かった。単純に素直に着物を楽しむ着物民もいた。わちゃわちゃと着物の話しが出来るのは楽しかった。

 しかし、着物アカは定期的に炎上する。
主語のない悪口やマナーを指摘することが、自分のことを言われたように感じるので、メンタルに良くない。

 (いるかさん、じゃないよ〜。と言ってくれたので安心したが。)

 自分の見たくないニュースも、フォローワーさんが、リツイートしたら、目に入ってしまう。社会的弱者や女性や子どもが、被害者になるニュースは出来るだけ避けたかった。

 noteは、その点、タイトルでチェック出来るのでとても良い。noteの書ける人、読める人は賢くて優しい人が多い気がする。

 ピダハンは、読むたびに新しい発見がある。今回はこのへんで。

                終

ここまで読んでくれて、ありがとうございます😊


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?