YOASOBI・宇多田ヒカル

昨日の話と違って性懲りも無くまだ同じようなテーマで記事書いてますね。この人(笑)。記事が読まれたから続編を、という訳でもありません。基本読んでいただくために書いている訳ではなく、自分の頭の整理のために書いているだけですから(笑)。

というか昨日の記事が何だか中途半端な感じがしたので、補足しなければならないような感覚を感じたんですよね。なので今日もまたこのテーマで書いてみたいと思います。

まず最初にこの二組(というより実際はAyaseさんについて書いているのでこれからは「二人」と表記します)が何故他の方たちと違うのか、についてまず補足したいと思います。

基本的に「セルフプロデュース」をする方、決して少なくはないんですよ。ただ特に日本の場合、非常に「主旋律志向」が強くて、まず主旋律があり、それを引き立てるためのサウンドという位置づけの作品が多い、と感じています。

昨日も軽く触れましたが、その点においてこの二人は違うんですよね。主旋律はあくまでも音楽を構成する一つの要素という位置づけであるように感じています。

恐らく推測ですが、お二人とも小さい時に「主旋律」中心で音楽を聴いてこなかったように感じています。

宇多田ヒカルさんの場合、ある意味音楽付けの環境だったのでしょうから、音全体が自然に入ってきたのだろうし、Ayaseさんにしてもクラシックのピアノ漬けという感じだったようなので、幼少時から音楽の聴き方が違うのでは、というのが自分の推論です。

まあ本人に聴かないと分からないでしょうし、本人達に聴いても分からないかもしれませんが、こういった生育環境というものは、その後の音楽に影響を与える、というのは自然なことだと考えています。

これに対し日本の音楽教育というのは、歌と伴奏から入るじゃないですか。これだとどうしても主旋律志向から抜け出すことは難しいでしょう。

なので日本ではあくまでも主旋律があって、サウンドというものはそれを補うためのもの、という位置づけになりやすいし、そこから抜け出すのもなかなか難しいと感じています。

自分の考えではこのような音楽は「貧しい音楽」だと思います。

でお二人はそういうところから離れた地点で音楽をやっているし、ともすればそういう方って逆にサウンド志向になって、主旋律軽視型の作品になることもあるのですが、その辺、お二人ともしっかり押さえているから、ある意味「日本的でない音楽」が出来るのだと感じています。

結局結論は「日本の音楽教育の貧しさ」という話のようになってしまいましたが、まあ事実なので、これでいいことにします。

明日はこの二人の「差異」について書きたいと思います。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。