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ぼくらの漂流記 Vol.1 根がヤンキー《前編》

《プロローグ》久保田くんについて
 はじめて久保田くんと出会ったのは、今年の4月。当時僕は、1年間勤めた松本市の公共劇場を退職し、これからの働き方を考えるために旅をしていました。
 旅の目的の一つとして、過去に「しらみずアーツキャンプ」という企画でお世話になった、小松理虔(こまつ・りけん)さんに再び会うことがありました。福島県いわき市で様々な企画を立ち上げ運営する小松さんは、僕にとって「理想の働き方」のモデルの一つだったからです。
 その時小松さんに、是非繋げたい、とご紹介いただいたのが、小松さんの元アシスタントである久保田くんでした。彼と話し、彼の住まいであり活動拠点の一つでもあるコウノヤ(後述)に泊まって、色々と話をして、この人と何かしたいな、と思いました。
 そんな久保田くんから、漂流が始まります。

1. 「根がヤンキー」

——ふう、それじゃあ、ふう、ということで始めていきたいと思います。

久保田
そんなに緊張してるんですか?

——いや、バイト中もずっと考えてるくらいで(笑)。今日は本当に楽しみにしてました。

久保田
責任重大だなあ(笑)。

——改めて、プロフィール紹介しますね。

久保田 貴大(くぼた たかひろ)
1995年、長野県東筑摩郡明科町(現安曇野市)出身。安土桃山時代から続く農家の長男として育つ。長野県松本深志高校を卒業後、早稲田大学社会科学部に進学。卒業後は一年間地元の銀行に勤めるも、心を病み退職。その後、アシスタントを募集していたいわき市の地域活動家・小松理虔氏を頼って福島県いわき市に移住。現在は同いわき市でNPO法人中之作プロジェクトに所属し、港町・中之作のまちづくり活動に携わっている。シェアハウス「コウノヤ」管理人。根がヤンキー。

——この「根がヤンキー」ってとこ、ずっと気になってて。どのプロフィール見てもだいたい書いてあって。

久保田
いわゆる、フックですね(笑)。

——なので今日の目標は、久保田くんがどうヤンキーなのかを掘り下げていければと思っております(笑)。

久保田
わかりました(笑)。

2. 生意気だった、、、

——まずは生まれ育った場所について教えてもらえますか?安曇野ということで、僕の住む松本からも近いですね。

久保田
そうですね。安曇野市って、2005年に5つの村が合併してできた、比較的新しい自治体なんですよ。

——そんなに最近なんですね。

久保田
そのうち4つは、南安曇群という、山と田んぼのあるザ・安曇野な感じの風景が広がっている地域だったんですけど、1つだけ東筑摩郡という別の地域から合併したのが、明科町(あかしなまち)なんです。

——へー。

久保田
どういうところかというと、山間部なので、もはや山とか見えない。あまり平らなところがない農村地帯なんです。
 小学校も1学年30人位で、町域の中にもう一つ学校があり、中学校からは一つになる。そこで初めて3クラスを経験しました。

——久保田くんはどういう子供だったんですか?

久保田
小学校までは結構人見知りで、ただ人見知りながら生意気で、児童会の代表委員とかもやってました。

——ということは、小学校の頃からまとめ役だったんですね。

久保田
そうなのかな、、、。でも、児童会の選挙があった時に副会長に立候補してたんですけど、生意気だったから落とされたんですよね。

——どういうところが生意気だったんですかね。

久保田
まあなんか、一つ一つの言葉が、かな。周りの同調圧力もあって、、、落とされてしまったという。

——凄いな、小学校の時から競争社会だったんですね。

久保田
まあ田舎のコミュニティというか、小さなコミュニティだからかな。

——ご両親から何か影響は受けましたか?

久保田
父親は公務員、母は銀行員です。なので、就活するときは親のようにお堅い仕事の枠組みで選んでました。

3. 業界の闇とりんごの夢

——大学は社会科学部ですね。入学当初は何をしたいと思ってたんですか?

久保田
大学選んだ時はジャーナリズムとかメディア方面に行こうとしてました。新聞社とか、広告代理店とか。
 ふわっとしてたんですけど、地元に対して田舎のクソさみたいなのはすごく感じてて、もっとうまい具合にブランディングができていれば町が賑わうのにな、って。色んな物事のクオリティを高める、ということがやりたくて。実際、大手広告代理店の下請けのようなところでバイトをしてました。

——でも、最終的に広告代理店には就職しなかったんですね。

久保田
広告代理店のバイトをしている中で、政治マターみたい話があって。こういう世論を形成したいから、こういう記事をもっとピックアップしてリリースしたい、というような案件に触れてしまったり。話を盛る仕事なんだなと感じてしまって。それは性に合わないと思って。東京に出て1年で、東京に抱いていた夢が潰れる感じがありましたね。

——はい。

久保田
で、しばらく悶々とする中で、一番大きかったのが、大学2年生の時に地元の「りんご音楽祭」に行ったんです。そのイベントには高校生の時にボランティアで参加したこともあったんですけど。
 その時、僕の地元に大学やサークルの友人を連れて行ったら、めっちゃいいとこじゃん、って言われて。あ、そうなんだ、東京から見て僕の地元はただの「田舎」じゃなく、ちゃんと評価されるんだ、って気づいて。
 そこから、もっと地元を評価していいんじゃないかと思い始め、どんどん地元思考になっていきました。

4. 就職はしたけれど

——どうして銀行に入ったんですか?

久保田
地元で就職せねばならんと思って、地元のメインバンクに就職したんです。
 早稲田というプライドもあったし、それなりに大きな企業には入りたいと思っていました。それで、就活情報サイトを見ていたら、テレビ局か、新聞社か、銀行家、公務員という選択肢しかなくて。で、その中で決めたって感じです。

——就職して一年で退職されたわけですが、どのタイミングで辞めようと決めたんですか?

久保田
研修がマジでクソで。なんか、監獄みたいな。

——というと?

久保田
まあ大切なことなのかもしれないですけど、スリッパが揃ってなかっただけで呼び出されて怒られるとか。

——厳しい。

久保田
研修がとにかく体育会系だったんです。あと、お茶汲みの練習をした時に、こういうのは女の子はできた方がいいよ、って言われるような古いジェンダー感覚だったり。人権意識も低いし、やってることも古臭いし、マジで終わってんなと感じて。

——はい。

久保田
他には、ビールをつがなかったら怒られるとか。

——飲み会もよくあったんですか?

久保田
やばかったですね。週に3、4回あることもあって、体力も消耗してたし、寮生活だったのでプライベートなくてキツかったですね。

——それは、病まざるを得ない環境ですね。

久保田
結局、この環境に馴染める人じゃないと残っていけないんだなと思って、でも僕はそうではなかったので。で、研修が終わり6月に支店配属だったんですけど、少し経ったくらいで、なんでこうなった、って思ってしまって。10月末には鬱の診断書が出て、半年間実家で休職、療養してました。

5. ツイッターで突撃

——実家に戻られて、その後、いわき市の地域活動家・小松理虔さんのアシスタントになったわけですが、小松さんとはどうやって知り合ったんですか?

久保田
実は、その前日譚がありまして。

——ぜひお聞かせください(笑)。

久保田
まだ仕事をしていた時にTwitterで佐野和哉(さの・かずや)さんという人と出会ったんです。北海道の遠軽町っていう超田舎出身の方で。僕の同期が「いいね」した佐野さんの投稿が、突然僕のタイムラインに現れて。
 確か「地方のカルチャーをつくっていくぞ」みたいなツイートだったんですけど。それで、この人めっちゃ気になるな、と思って、佐野さんのブログを、2012年くらいのものから全部読んだら、あ、全部俺と同じこと思ってんな、って思って(笑)。

——はい。

久保田
あまりに感動し、佐野さんにリプを送ったんです。それで佐野さんに拾ってもらったみたいな感じです。それが、全ての始まりだった。

——そこから全てが、、、。

久保田
休職してから佐野さんと直接会って、次の仕事探してるんです、って話したんですよ。そしたら、こういう人に会ってみたら?とか、佐野さんのnoteのマガジンで記事書いてみたら?とか、仕事や地方のプレイヤーたちと会う機会をくれて。コミュニティもどんどん広がって行って。
 で、最終的に佐野さんの知人に理虔さんを紹介してもらったんですよ。

——ふーん。

久保田
その方が理虔さんの仕事仲間でもあって、今アシスタントを募集してるよ、って教えてくれて。当時僕は理虔さんを知らなかったんですけど、 仕事もないし、やるしかないな、って思って。で、またツイッターで突撃して。

——ヤンキーだ。

久保田
で、気づいたらいわきにいた、みたいな。

——佐野さんに出会ってから、いわきにたどり着くまで、期間でいうとどれくらいですか?

久保田
7ヶ月くらいかな。

6. アシスタント時代

——小松さんのアシスタント時代はどんな生活をしてたんですか?

久保田
僕は、福島県は郡山とか会津の方は行ったことあったんですけど、いわきに行くの初めてだったんです。だから何のツテもなくて、最初の1ヶ月間は近隣の温泉旅館に泊まってました。
 最初はひたすら理虔さんのあとを付いていくだけで、Twitterで広報をやったり、取材に行ったりだとかして。それで少しずつ理虔さんの仕事がどういうものか学びながら、コミュニティを広げていきました。

——働いてる時は、前の1年間とは全然違いましたか?

久保田
全然違ったんですけど、逆に僕が理虔さんの仕事についていけない、ということが起きていて。当時の僕は、結構銀行時代のしきたりが身についていて、働き方のさじ加減が本当にわからなくて。3ヶ月ひたすら働いていたら、また鬱になってしまって。

——そうなんだ!安定したのかと思ったら。

久保田
だいぶ不安定でしたよ、当時は。もちろんやれって言われたこともできてなくて、なんとかこなしてるって感じでした。

——何年間アシスタントしてたんでしたっけ?

久保田
半年です。

——そんなに短かったんですか?二人を見てるともっと一緒にいたのかと思ってました。

久保田
めちゃくちゃ濃密かというと、そうでもないんです。

7. 熱烈なオファー

——じゃあ小松さんのところを辞めて中之作に行った、ということですか?

久保田
理虔さんの仕事で「中之作プロジェクト」がよく取材先になってたんです。そのうちにスタッフを募集しているという話を聞き、プロジェクトをやっている豊田さん夫妻から熱烈なオファーを受けました(笑)。

——久保田くんのどういうところが気に入ったんでしょう?

久保田
まあ、とにかく若手が欲しかったんですよ。豊田さんが、理虔さんのとこに若いのがいたよなって思いついたみたいです(笑)。

——小松さんはどういう気持ちで久保田くんを引き渡したんですかね。

久保田
不本意だったと思います。でも、僕(久保田)の判断だったら任せますって。

——じゃあ、先に中之作からオファーがあって、久保田くんがそれを受けたということ?

久保田
当時僕は、中之作プロジェクトのスタッフになるとは思ってなくて。理虔さんの仕事をメインでやりつつ、パートタイム的に関わってみたいな、と思ってたんですけど、気づいたらこっちがメインになっていて。

——え、えっと、どういうこと?

久保田
なんか、理虔さんと話をしてるうちにそうなって。久保田くん、職員として働いちゃえば?みたいな。本当に、気づいたらこうなった、という感じ。

——いやあ、ここまででも十分濃密だなあ(笑)

久保田
(笑)

次回予告(6/30水曜日更新予定)
流れ流れてようやく中之作にたどり着いた久保田くん。次回は現在の活動や、今後の展望について掘り下げます。
果たして「根がヤンキー」の本意とは?そして、いわきを去るって本当ですか⁉︎

久保田貴大くんのnoteでの記事はこちら

後編はこちら


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