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ささやかな反逆の計クロッカス

娘の結納が無事に納まりました。
新郎くんは現在は関西在住ですが、生まれは東シナ海に面した海の町。
ご両親は現在もそちらにおられますので、そこから関西までお見えくださいました。
最寄りの新幹線の駅まで車で3時間。
そこから関西まで。はるばるです。

この頃は結納のお品のレンタルがあるそうで、立派なお品をこの場のために業者さんを介して整えてくださり、富岡鉄斎のお軸の前にお並べくださり、式次第に従ってことは滞りなく終わったのでした。

わたしはといえばケイシキなるものが恐ろしいほど苦手で、思えば自身のケッコンのときから折々さまざまに求められるケイシキたるものに恐怖を感じながらここまできました。「これこれのときはこうするのが常識」ということはわたしにとっては襲いかかる恐怖以外のなにものでもありません。「それはいまここで個人がそのいのちの尊厳を保っていきることになにか関係があるのでしょうか? それを求められることによっていのちがゆらぎおびやかされているにんげんがいることなどおわかりにはならないかと思いますが。」と思いながら、そのケイシキジョウシキたるものから外れようものなら引き受けなくてはならない厄介を引き受ける気力もなく、結果としてそのケイシキたるものを一時的にうっ、と口先に含んではその場を過ごし、ケイシキのヨウキュウが終わればそれらを口先からペッ、と吐き出してしばらく深呼吸しをて自身を取り戻す、と、そんなことをくり返してきました。いえ、くり返しています、という現在進行形です。

いのちのありようというものはそうそうかわるものではありません。

ただ、いわゆる「嫁ぎ来たものの」として強いられるケイシキよりも、娘を「嫁がせる」(この言い回しも時代錯誤ではあるのでしょうが)ときのケイシキは、一次的なものととして距離を保つことができ、おびやかされるところまで達しなかったのは幸いでした。娘とともに生きてくれる人が現れてくれて安心したということもケイシキに従うクツウを軽減してくれたということもあるのでしょう。

さて、それでも一筋縄ではゆかない道をよたよたと歩いてきたわたしです。ケイシキに対するひとつのひそやかな反逆を娘の帯に仕込みました。

結納のお席で振り袖姿の娘の締めていた帯はかなりの重さのある豪奢な帯です。立派な帯です。とても美しい帯です。わたしはこの帯を数年前、100円で手に入れました。大阪の下町の商店街を抜けたところにあるちいさな会場であった落語会の帰り、商店街を駅へと戻る着物屋さんの店先のワゴンで、着物や帯、帯揚げや和装下着などの100円セールをやっていました。帯揚げや下着などはいわゆる新古品で、タグの付いたまま在庫となっていたものなのでしょう。その中に、人の手を経ての年輪を重ね、すこしやわらなくなったこの帯が紛れていまた。いえ紛れようもなく紛れもなく輝いていました。着物を着る人が少なくなり、立派な帯もこのような憂き目に遭うのでしょう。気の毒きわまりなくも思います。

もちろん帯は文句なしに美しく、結納の儀に臨むに申し分のない、末広がりの扇文様で、ケイシキの中で立派にその役目を果たしてくれました。

ケイシキには往々にしてお金が伴います。それは少なからぬ額、たとえば本が何冊ほども買えるのだろうという額が伴うことが通例です。懸命にいきることに使うたいせつなお金でケイシキを整える。そんな怖い所業があるだろうか、とわたしなどは思うわけですが、そんな声が届かないのがケイシキがケイシキたる所以です。
ならば従わなければよいのですが、従わないものをコウゲキする矛となるのもケイシキとか、がちがちカッコ付きのジョウシキです。コウゲキにはくわばわくわばわお助けくださいとなりますので、自身を守るため、消去法で、矛先を向けられることを防ぐためにケイシキを整えるのです。

なんどでも言いましょう。ケイシキに決して恥じない豪奢な帯を用意することができました。わたしがケイシキに見出す価値よりもすこし高い対価を払って。

結納の儀を終え、なごやかな会食となりました。宴の最後に撮った集合写真には、「両家」と、これからをともに歩む2人がみな、ケイシキ的ではない満面の笑みで写っています。


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