[第9回] 黙るしか

 「終点のダンス」を感情的な怒りというならば、この「黙るしか」は理性的な怒り。静かな怒り。
 この曲は自分もよく使います。(使うという表現が正しいのかはわからないけど。)自分自身は正しくないのかもしれないけど、今この瞬間だけは正しいと思いたい、そうでありたいと思わせてくれる曲です。


 [私情を挟みまくった解説のようなもの]
 そもそもなぜ「黙るしか」ないのか。それは「挫折を知らない幸せなヤツ」の所為だから。でも変われない自分ができることは「自信に塗れてくたばればいい」と笑うしかない。奴らに笑われる前に笑いたかったのかもしれない。

 「黙る」という行為は一番楽ではあるが一番辛くもある行為だと思います。何も言わなければ周りに敵を作らなくて済むけども、息がしづらくなる。でも言いたいことは言えない。
「誰にも迷惑かけたくないから」「みんなが許してはくれないから」
ならば行き着く先はやはり「黙るしか」ない。

 この「黙る」という行為もいつかは解決してくれるかもしれない。
 でも「行き場をなくした気持ちの処理とか大人になったらわかると思ってた」「教科書はやっぱ役に立たなかった」 

 そんな暗闇の中に一つの道を見つけてしまう。そのたどり着く先は屋上。たどり着く答えは…。


 何も決して前には進まない。いいことなんて何一つない。生産性が何もない。だからこそこの曲に惹かれてしまう。


 [考察的な]
 「挫折を知らない幸せなヤツ」とは誰なのか。囁一さんは明確な人がいると発言しています。でも想像しないでほしいと言ってます。まあするなといわれたらしたくなるのは人の性。そこで考えてみたのですが、挫折を知らないやつなんて本当にいるのでしょうか。すごい言葉ですよね。そんなひといるのかなぁって思ってしまいます。まあ心当たりがあるとするならば、「挫折を知らないやつ」と人を勝手に見下している「自分自身」となるのでしょうか? それとは別にもう一つ考えがありまして、それは歌の最後の「こんなに歌ってみても変わんないよ それでも僕になってみたい?」というところから、囁一さんになりたいといった人のことではないのでしょうか?初めてこの歌を聞いた時からこの最後の歌詞だけすごく引っかかってました。なんか浮いているなというか、最後に取ってつけたかのような。だからこの可能性もあるのかなと思います。

 「たどり着く答えは一つしかない」、歌詞では「一つ」と歌っているところが「二つ」になっているんですよね。誤植ではなく歌の主人公本人には一つしか見えていないそうなのでそういった表現になっているらしいです。この一つが「死ぬ」ことなのは間違いないはずです。ではもう一つはなんなのでしょうか。それはきっと「言葉にする」ことなのではないでしょうか。やはり「黙る」のではなく言葉にしないといけない。そして今それをこの歌で無意識に表現できている。でもこの歌の主人公は気づいていない。「黙るしか」ないこの今を「言葉にする」、この矛盾そのものがもう一つの答え、そう考えることはできないでしょうか?
この「言葉にする」というのは「後夜祭」でお話ししたいなと。

次回は「ドレミとソラミミ」です。


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