変貌するシルクロードの国・ウズベキスタン鉄旅:③ハン(王)の居城を中心に発展した古都・ブハラ
タシケントを8月15日の朝の7時28分に出発したアフラジャブ号は、定刻通りの11時20分にブハラに到着した。
ブハラは、サマルカンドほど有名ではないが、オアシスの集落として発達し、9世紀にはイラン系豪族のサーマン朝の首都となり、繁栄した。ところが、1220年にチンギスハーンによって襲撃され、徹底的に破壊し尽くしてしまった。その後、16世紀のシャイバニ朝の時代になって復興された。
初めてのウズベキスタン料理
ブハラ駅から日本人墓地へたちよって、ブハラ市内に到着したのはお昼をかなり過ぎてからだった。
前の日の夜遅くにウズベキスタンに到着しているものの、ウズベキスタン料理を食べるはこの日のランチがはじめてだった。二階テラスのステキなレストランだった。
ウズベク人の郷土料理といわれるプロフと、濃厚な味のトマト、キュウリ、タマネギのサラダ、GOLDというベタな名前のビールを注文した。
プロフは、焼き飯やピラフの類かなと思ったが、ちょっとそれらとは別物だ。美味しかったけど、焼き飯やピラフよりも甘く、ちょっと油こい。
サラダは濃い味で美味しかった。
GOLDも良いのだが、ちょいとアルコール度が高いかもしれない。いずれにせよ、日本人の口には合う。
これで72,000スム。細かいお金がなく、50,000スム札2枚からお釣りをくれと言ったら、70,000スムでええわといわれた。日本円にしたら、850円ぐらいだった。
古い街並みを活かす
ブハラの旧市街は、かつてのハン(王)の居城であったアルク城を中心に、数多くのモスクやメドレセ(神学校)、ミナレット(光塔)、タキと呼ばれる丸屋根で覆ったバザールなどが建っていた。
バザールでは、衣類や食器、刃物、楽器、お土産物など、いろいろなものが売られていたが、どれも色鮮やかだった。
旧市街の真ん中にラヴィハウズという池がある。奈良の猿沢の池によく似た印象である。その周りに古い石造りの家があるが、その多くがホテルやB&B、レストラン、土産物屋などになり、歴史的な街なみを活かしたまちづくりが行われていた。石造りの家の間に細い道が迷路のようにあるが、治安はよく、私が一人で迷い込んでも怖い感じがしなかった。
ハン(王)の居城・アルク城
巨大なアルク城のなかには、王の執務室や謁見の広場、さまざまな行政機関などがあり、一つの街のようになっていた。アラブやモンゴル、ロシアからの侵攻への抵抗の拠点だった。
アルク城には日本人の観光ツアーが何組も来ていた。コロナ禍前には、ウズベキスタンは新たな旅行先として特に女性のなかで人気が高まっていた。
他方、歴代の王は内政面では圧政を敷いており、この城には弾圧や処刑の血なまぐさい歴史が刻まれていた。人々を壁に鎖でつないだ様子など、いたいたしい歴史が展示されていた。
宗教色が感じられなかった巨大モスク
ブハラ最大のカラーンモスクも見た。208本の柱で屋根を支え、荘厳で美しい。ここは、ソ連時代は倉庫に使われていたが、独立後、モスクとして復活した。
しかし、マレーシアで訪問したモスクとは雰囲気が違った。マレーシアのモスクには全体に絨毯がはられ、熱心に祈りを捧げる信者がたくさんいて、異教徒の観光客は祈りを妨げないよう求められ、厳粛な雰囲気があった。カラーンモスクにも、絨毯が敷かれた礼拝の場があったが、それは目立たないところにあり、全体的に見ると観光的な使われ方で、宗教的な雰囲気があまり感じらなかった。ウズベキスタンでは、独立後、ソ連時代の宗教抑圧からの反動から原理主義が台頭するのではないかと危惧された時期もあったようだが、そうならなかった。ソ連の宗教抑圧がなくなっても、熱心な信者として戻ってきた人はすくなかったのではないだろうか。
ちなみに、カラーンモスクの隣にはブハラで一番高いミナレット(光塔)が建っていた。ミナレットの一番上ではかつて火が炊かれていて、砂漠を渡る隊商の道標になっていた。戦争のときには敵を見出す見張り台ともなった。
さらに犯罪者を袋に入れて、この塔の上から突き落とすという刑もあったということだから、かつての圧政はそうとうなものだ。
ダッタン人の踊り
8月15日の夜はブハラのナディール・ディゥァンベギ・メドレセ(神学校)の中庭で開催された民族舞踊の夕べに参加した。その様子を動画で見て欲しい。
詳しい解説もなく、歌詞も意味がわからないが、音楽や踊りの動きをみて、何の踊りかを想像してみると面白かった。踊りには人々の願いや祈りがこめられており、たいがいは収穫や農作業、放牧などの仕事の歌か、恋の歌か、冠婚葬祭のライフイベント、そして戦争などがテーマではないか思う。踊りの演目ごとに、「これは収穫やな」、「これは馬に乗ってる様子やな」、「これは若い娘の恋の歌や」と勝手にイメージを膨らませていた。全体として厳しい自然環境や歴代王朝の圧政の元でもたくましく生きている民衆の姿を描いているように見えた。皆さんは、この動画を見てどう感じられるだろうか。
ロシアの作曲家ボロディンが歌劇「イーゴリ公」の中の作品、「ダッタン人の踊り」もコーカサス地方の民俗舞踊にヒントを得て作ったそうだが、ここの舞踊とも似ている感じがした。
この夕べではウズベク人の男女の舞踊の合間にロシア風の長身の美人によるファッションショーが挿入されていた。彼女たちが纏っている衣装はスザニというウズベキスタンの伝統的な刺繍ではないかと思う。
夕べではウズベキスタン料理もコースで出してもらえた。とくに美味しかったのが、お米、豆、野菜を煮込んだトマトベースのマシュホルダというスープとラグマンという皿うどん風のパスタだった。スイカとメロンも美味しかった。
アラビアンナイトのような寝室
この日に泊まった宿は猿沢池に似たラヴィハウズの近くにあるサーシャ&ソンというホテルだった。ブハラの昔ながらの建物を改造したもので、内装は千夜一夜物語に出てくるササン朝ペルシアの王様の寝室みたいだった。
コクチャイ(緑茶)で酔いを醒ます
猿沢池によく似たラヴィハウズに面するカフェでお茶を飲んでみた。
中国発祥のお茶は東に向けては朝鮮や日本へ伝わり、西に向けてはシルクロードを通って中央アジアからヨーロッパへ伝わったこともあり、この地域でお茶をよく飲むらしい。
緑茶をコクチャイ、紅茶をカラ・チャイと言う。私はコクチャイにした。注文すると、こういう急須に入れて持ってきてくれる。
実は、お昼ご飯に飲んだ地ビールが結構きつくて、夕方には軽い頭痛に見舞われた。そのため、コクチャイを何杯も飲みながら、池を眺めてぼっーとしていると、だんだん調子が良くなってきた。
お茶には元来、解毒作用や整腸作用があり、もともとは薬として各地に伝えられた。とくに緑茶に多く含まれるカフェインには二日酔いの原因物質であるアセトアルデヒドを分解する作用があるといわれているので、そのおかげでビール頭痛が治ったのかもしれない。
郊外には現代的な街並みが立ち並ぶ
なお、私が観光で歩いたのはブハラの旧市街で、その外側には現代的な商店や住宅が立ち並ぶ新市街が広がっていた。ウズベキスタンのGDPは2017年時点で665億ドル、一人当たりのGDPは1,520ドルで世界平均の20%となっていた。とくに、2004年以降は7〜8%の経済成長を続けているということで、これからもっと変わっていくのではないかということを、ブハラの新市街を見て感じた。(つづく)
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