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知の快感

足りないオツムを補うかのように、私は知識を欲する。知らない言葉や知識に飛びついた。誰かと話してる時、何かを読んだり見ていたりしている時、知らない言葉や情報がでてきたらスマホや手の甲などにメモをして隙を見てすぐに調べつくした。”知らないものを知りたい” 最初の頃はそれだけだったように思える。知らなかったものが私の中で大切な何かに変わる瞬間、それがたまらなく気持ちよくて気づけば私は色んなところで未知を探すようになっていた。色んな好きや面白いに出会いたかった、知れば知るほど枝のように繋がっている情報や作品にゾクゾクした。私の中で全て吸収して全部私の一部にしたかった。けれど、最近は”知らないといけない”という感情に支配されているように感じる。これを知ってるならこれも知っとくべき、若いうちにこれを見とくべき、いつから…いつから私の中でべき論になってた??私の知識はほとんどは人から与えられたものだった。与えてくれる人はみんな私とは比べ物にならない知識の持ち主ばかりでそんなみんなを私は心の中で先生とこっそり呼んでいる。でも、私はそんな先生達と対等の関係になりたかった。与えられるだけでなく、同じように先生たちに与える存在でありたかった。だって、私の存在を必要とする人達は私の人生では必要と思えなかった。ある人は、私が教えるものはキラキラ輝いてるように見えるのだと言ってくれた。ある人は、私の感性が好きだと言ってくれた。でも、その人たちから私何も感じなかった、何も残らなかった。だから、同じように私の先生たちに何も与えられない存在だと実感するのが苦しかった。何かを与え、与えられる存在、高め合う同士に私はなりたいのに私は与えられてばかりだった。足りない、、こんなんじゃ足りない、。知れば知るほど目の当たりにする終わりのない情報。知るという行為は本来、迷っている時に道を照らしてくれようなそんな手がかりになる行為だと思っていたが、知れば知るほど増えていく道に私の頭は混乱していった。選択肢や情報が増えれば増えるほど、私は何かを常に選択しなければならなかった。知るという行為は本来、視野が広くなり物事を色んな角度から見られるようになる行為だと思っていたが、知れば知るほど増えていく知識で周りを見下すようになっていた。映画好きというならこれは知っておけよと思う、進学校に行ってたと自慢するくらいならこの人物くらい知っとけよと思う、口にはしないもの知らないと誰かに言われる度に心の中で毒を吐いた。あぁ、いつからこんなふうになってしまったんだろう。”知らないものを知りたい”だけだった私よ、帰っておいで。おすすめされたり、見つけたものが私の欲していたものとピッタリあてはまった時、ドーパミンが弾ける音が聞こえる。カチッとタバコのカプセルを潰したような音の後、次第に私の脳みそはとろけていき、脳汁を浴びた心臓はバクバクと巨大化していく。あの瞬間が好きなのだ。知識をそんなに知ってどうしたいの?と少し前に言われた。なんで?なんて考えればありすぎて困るけどさ、結局は気持ちよくなりたいからなんて簡単な理由だったりするのかも。というかそれだけでいい気がする。だから、私がいつかたくさんの知識を蓄えた時は知のビッチなんて下品な名前で呼んでくれたら嬉しい。知らない事を教えてくれたらお手でもお座りでも何でもしてあげるから、その時は知識に貪欲な犬だと優しく撫でて欲しい。ああ、もう!それくらい単純でいいのかも!!

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