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型を通じて習慣を変える

剣武天真流蒼天道場の稽古は、教範による自修が大前提となっており、月1回行われる道場稽古では、自修して来た型を師範である私が確認して個別指導する事と、一人では実践不可能な組手や組太刀を通じて、お互いに心身の使い方を深める事に重点を置いている。

それだけに、稽古に対する動機が明確になっていないと、稽古が進まないばかりか、昇級昇段審査をクリアするゲームのような感じになってしまう事にも成りかねない。確かに審査は正確な型ができているかどうかを確認する機会として重要な意味を持つが、その場でクリアしたら終わりという発想では、当然その型が持つ意味や働きを理解する事は出来ない。

そればかりか、せっかく段まで取ったとしても、段位という称号が目的になっている限り、初期の頃に習った型などはどんどん忘れて行ってしまう。学生時の自分を振り返ってみても、テストをパスする事が目的の勉強は、結局のところ身につかず、日常で使う必要性がない知識は忘却の彼方へと消え去ってしまう。

では、何のために型を学ぶのか?矛を止める意図が含まれているにしても、本質的には敵を殺傷する目的で生み出された剣の技や型を、今という時代に学ぶという事になると、ここを考えずにはいられなくなる。何しろ、一生懸命に型の稽古をしても、審査や演武の時以外にはそれを用いる場面はなく、それが直接護身術になる訳でもないからだ。

古の剣術書などにも書かれている通り、素人の動きは読めないもので、決まった型稽古で組太刀などしていると、却って予想外の動きに応じられなくなるというような弊害も出て来る(もちろん稽古の仕方によるが)。それ以前に、今は刀を持ち歩くこと自体無いのだから、護身的な面を期待するのなら、剣の扱いに習熟しても役に立つとは言い難い。

もちろん、剣武天真流は「天地人々ワレ一体」や「意識の解放」を目的として生み出された新しい剣術で、心法を重要視するところがあるので、その面では現実生活に直接応用できる点が多い。と同時に、それが「出来ているつもり」に陥ってしまわないよう、武道的な条件での利きを厳しく追求する側面もある。

それでも、日常で使わないような動きを体に浸透させるのは容易ではないのだ。私も教える立場でなかったら、今ごろ、思い出せなくなっている型があったと思う。だが、ある時から私は、ちょっと違う発想で稽古に取り組むようになった。その発想があると、型を学ぶモチベーションも大きく変わって来るので、以下、その取り組みについて記してみたいと思う。

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