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【わが家の発達障害】③毒親・毒子かもしれない

本日のトップ画像は、あさの千幸さんから拝借しております。https://note.com/ac88


母が毒親になった原因は分かっています。

私のおじいちゃんおばあちゃんは明治生まれ。奉公先で出逢った若者同士が当時のルール(いいなづけ)に則って結婚し、7番目に生まれたのが母。

日本は、戦争に耐えられる強い男性を作る必要がありました。

戦争に勝つための学校教育、家庭教育。社会全体が男性をほめたたえ、女性は強い男性を生み育てることが役割になりました。

戦争に負けてアメリカ統治となってからも、まじめな日本人は、強い男性を作る教育を続けていました。それは今もまだ残っています。

高度経済成長を迎え、時代が大きく移り変わる中でたくましく育った母は、物心ついた時から「あんたが二十歳になるまで私らは生きてないかも知れんから、しっかりしてや」と言って育てられたそうです。

言いつけ通り、しっかり者に育った母は、大反対を押し切って父と結婚。

なぜ結婚を反対されていたかは、父のことを書いているこちらの記事をご覧ください。

↓ ↓ ↓


しっかり者=しっかりしているから認められる=しっかり者でいなければ捨てられる

がんばり屋=がんばっているから認められている=がんばっていなければ嫌われる

結果、しっかり者・がんばり屋の本領を発揮できる相手、当時の男性像からかけ離れたダメ男(父)を選んでしまったのです。

いくらしっかり者、がんばり屋でも、ボロ雑巾のようにされたらストレスも溜まるし、愚痴や弱音も吐きたくなります。

そうすると、はけ口が欲しくなります。

そのはけ口に選ばれたのが私。


ずーっとたどっていくと、毒親・機能不全家庭の原因は、

母→おじいちゃんおばあちゃん→戦争だったのです。


明治生まれの両親のもとに生まれた父と母は、古風で融通がききません。

「良い妻でなければ」「良い母でなければ」「良い子に育てなければ」「女性はこうあるべき」なんていう、思い込みやルールがいっぱいあったのだと思います。


しんどかっただろうなぁ…


ふと、思い出した母の言葉。

母の病気が発覚する少し前、近所の人が、母のそばにいた私に「あら、お嬢さんなの?」と声をかけてくれた時、母は「この子、優しいのよ。」と言いました。

母にほめられたことなんて一度もなかった私は、耳を疑いました。

あの時、なぜ母は突然私をほめたのだろう?

今でも答えが見つかりません。


もう一つ、亡くなる直前に「あんたが離婚してくれてて良かったわ。そうじゃなかったら、こんな風にお世話してもらわれへんもん。」と言いました。

世間体を人一倍気にする母にとって、私の離婚は恥さらしの極みでした。

介護している私に向かって、嫌味とも思えるそぐわない言葉だけど、母の最上級の承認だったのだと思います。


50年生きて、ようやく幸せをつかみかけてる私。

母に見てもらいたかったなぁ。


これから、もっともっと幸せになって、お地蔵さんに向かって父と母に毎日お礼を言い続けたいと思います。


こんな気持ちになれたのは、結婚して、子育てして、離婚して、商売して、大学に入って、教育現場に入って、行政の仕事をして、コロナのあおりを喰らって、新しい素敵なパートナーとその家族に出逢って…

めちゃくちゃ苦労したし、めちゃくちゃ遊んだし、めちゃくちゃ学んだから。


毒子の娘も、いろんな経験をすれば分かる時がくるのかも知れない、と思っています。


ううん。分からなくてもいい。

それも娘。毒子でも娘。

近寄ってはいけないけど、離れた所からいつも想っています。


「行いを許さず、人を許す」


このテーマはここまでにします。

また書きます(^^)/

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