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おやじ達の夏合宿

夏におやじ達が集まって山中湖でテニスの合宿をする。

私は、ある商社に勤めていた。
50を過ぎてから会社の転勤命令が出て神奈川地区の営業所所長として
単身赴任することになった。
その頃は、もう子供たちも成人し転勤を断る理由もない、
むしろこの年まで転勤しないでいられたのは幸せ者である。
急に寂しがる妻君を置いて単身で赴任した。
状況から言ったら一緒に赴任しても良かったのかもしれないが、購入した小さな家を守るため、という言い訳で残ってもらった。

その時代にテニスをするおやじ達と知り合い、夏になると決まって山中湖周辺で合宿をしていた。  これはその時代を過ごした思い出である。

仕事上の付き合いのある、ちょっと世話好きなTKY課長に誘われ、帰省しない休みの週末は大学のテニスコートに集合してテニスを楽しんだ。
暇つぶしになり、且つストレスの発散になり非常に嬉しかった。
その大学は当時多摩市にあった。農業大学とのこと(別に農業を教える学校ではなく、農業生産物をどのように流通に乗せて利益を上げてゆくか、という現代農業?)の様で、テニスを楽しむ学生が極めて少なく、コートは我々がほとんど使っていた。
活用できたのは大学関係者、FSYK教授(奥様)がいたからである。
他の大学に勤めていたFJT教授(夫)とご夫婦で、この二人が中心のテニスサークルだった。 

集まってくるメンバー
私は、Bogye
世話好きな TKY
教授 FJT(夫)
教授 FSYK(妻)
TKYのお友達 TNK
偏屈な設計技術者 SGH 
お仕事引退組最古参のSGMT
長崎出身でmobile設計者 の SMZK
退職金全てつぎ込んで事業始めた 人 MRT
Web連絡ページ係のARA
その他に数人出入りがあった。

山中湖は富士山が湖に映り込んで何とも言えない美しさが有り、夏は多くの学生が合宿地として使うため夏は若者の街に様変わりし青春の風に包まれている。
親父たちは何故合宿するのか、集まるのか、まだまだ老いを認めたくないのか、毎年合宿と称して集まるのだ。
親父たちは決して高価な宿は選ばない、収入はあっても学生たちと同じ宿を好む。 宿にテニスコートがついている条件で探してくる。
数年間は同じ宿を毎年使っていたが、だんだん嫌われてきたのかある年から予約が取れなくなった。 恐らく酒を飲むからではないかと想像する。
宿で食事の時にビールを飲む。(ビールだけ)これは特に嫌われる内容ではないと思う。むしろ売り上げが上がって良い。
問題は部屋に戻ってから持ち込み酒を飲んで騒ぐ、恐らくこれが致命的で、宿側の人も他の宿泊客も休めない。 さらに、テニスコートで酒を飲みながらテニスをする(やりたい放題に見える)。宿側にしてみると倒れて救急車でも呼ばれては、かなったものではない。
不思議なことに何故か結構飲める人が集まっていた。
そんなこんなで毎年宿を変えるようになった。
それでも何とか探してきては遅い青春を満喫するかの様に合宿していた。
山中湖の夜は素敵だ、山中湖の湖岸にみんな集まってくる、花火を見たり、色々散策したり、夜が更けてゆく。
避暑地というよりやはり合宿が似合う場所だなといつも感じる。
本当に青春時代が戻ってきたように錯覚する。
そして朝も素敵だ、朝早起きして忍野八海へ散歩する。宿の位置にもよるが、結構な距離が有ってもよく出かけた。
そして宿泊した翌日も午前中テニスをして帰る、それぞれの日常へと。

 教授のFJTさんは、朴訥(ぼくとつ)で普段口数は少なくテニスに、いや走ることも、だれよりも一生懸命で生命力を感じる。 話してみると意外と気さくで色々な知識があるだけにどんな話も相手してくれる。
 そして教授の奥さんFSYKさん(教授だが)は、FJKさんをいつも非難するが、FJKさんは黙っている。それが夫婦円満ということかな、もっともFSYKさんも本気ではない、ストレス発散かな、 多分。
二人は東北の大学で出会ったようだ、二人とも陸上部で先輩後輩の仲だったとか、学生時代アルバイト漬けの日々を過ごした僕から見れば羨ましい、そんな青春が。

 世話好きのTKYさんは、サークルの中で結構意見を述べるタイプで場合によっては余計なお世話と、誰もが感じてしまうような発言も有り、時には煙たかれる存在でもあった。 良い人なんですがね。

 そのほか色々な個性の持ち主が集まっていた、個性の無いのは僕で、一番年下で誰からも好かれていた(たぶん、そんな気がする、知らぬは本人のみかもしれないが)。 色々な個性が集まっていたが、誰かが何か言うと、どこからかブツブツと物言う人が必ず現れるが、喧嘩するでもなく不思議とまとまっていた。

そんな、グループに変化が起きた。

ある練習日を境にSGMTさんが現れなくなった。
みんな、「どうしたのかな?」と話しながら、「彼の最近のテニスは相当ストイックだったよね」などと会話しつつ、誰もが彼の引退を心のどこかで感じていた。 そして、その後、やはり彼の姿を見ることは無かった。

次にテニスに来なくなったのは、SGHさん。
彼は現役時代は某大手の設計部長だったようだ、ワインが好きで、練習日にはよくワインを持ってきた。 かなり個性的ではあった。
そんな彼も自然と顔を出さなくなった。 何も宣言したわけではなく、ある日突然。 彼らは、マッカーサーのように「老兵は死なず、ただ去り行くのみである。」とでもいうように。

そして私にも変化が、松本への転勤命令がでて、みんなと一旦お別れして松本へ転勤したのである。 それでも夏の合宿には出て行った。

そして1年後ぐらいに、長崎出身のSMZKさんが亡くなられた、と、TKYさんから連絡があった。
「いつかは長崎に戻りたい」と、常々言っていた彼を思い出す。
忘年会や暑気払いで集まった時に私はよく彼と話をした。
良い人だった。
東京でも畑が残る厚木方面で、会社引退後は畑をやっていた。
畑で倒れたようだ、彼は煙草と酒(日本酒)をこよなく愛していた。
そこから導き出される死因は心筋梗塞、と、想像した。

そして数年して、また私に変化が起きた。
本社でプロジェクトを任されることになったのだ。
またまたの上京することになり、皆さんが喜んでくれた。
久々に毎週のテニス練習に出かけていくと、みんなが年をとっていることに驚いた。 それはお互いさまではあるが、かつての勢いがなくなっている。
「諸行無常の響きあり」 そして、ついに夏の合宿が無くなったのだ。
ただ、飲むことは盛んで暑気払いはFJTさんの家で盛大にやった。
冬は、牡蠣をしこたま取り寄せて、生牡蠣でレモン、焼き牡蠣でレモン、
蒸し牡蠣でレモン。 そして、ワイン、日本酒をあおった。
皆、飲める人たちばかり、そして牡蠣に当たる人はいなかった。
そんな時間がとても楽しかった。

そんなことを続けていたある集まりの時、FJTさんが切り出した。
今度みんなでBogyeさんの家に遊びに行こう。
ギョとする私、歓声あがるみんな、流れである。
私も、「真田一族の観光案内をしますよ。」と、叫んでいた。

そして、その年の6月、みんながやってきた。
簡単に自宅紹介、それから真田の 城跡、真田家の墓(長谷寺ちょうこくじ)、山家神社、信綱寺、お屋敷跡、米山城、上田城、国分寺跡など
一日フルに説明して回った。
そして、夜は居酒屋で飲み会、そしてホテルにご案内して、私は家に戻り
翌朝、また集合し、松代城跡と象山地下壕、川中島合戦跡を案内し、帰路高速道路へと案内し、別れた。
それが、彼らと会う機会の最後となった。

私は、プロジェクトも終え会社を引退し自宅へ戻ってきた。
1年ほどすると、TNKさんが亡くなったと、またTKYさんから連絡があった。 だんだん寂しくなる。

やはりFJTさんはただ物ではなかった。
あの日あの時、我々最後の集まりになるだろうことを知っていたかの様だ。
思えば15年という長い単身赴任の旅だった。

さて、私と言えば、家に戻っても実はテニス仲間がいて、週一でゆる~いテニスをしている。
そして、年に数回しか行かなかったゴルフを月に4回ほどやるようになり、こちらも仲間が増えてきた。
最初は、若いころの様には飛ばなかった飛距離もだんだん戻ってきた。
念願のホールインワンを出したので、次はエイジシュートを目指している。
まだまだ、やるぞ~。

さ~て、今日は良い天気だ、暑くなりそうだな。
ゴルフに行く時間だ・・・・・。

#エッセイ #テニス #ゴルフ #仲間 #酒 #牡蠣 #合宿




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