メモ: "大人になる"こと、その先に 〜『少女革命ウテナ』・『輪るピングドラム』における自動車の役割から〜

テレビシリーズ
『少女革命ウテナ』
【製作:日本 1997年放映(全39話)】
https://youtu.be/tyPv7QyuZl0 

映画
『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』
【製作:日本 1999年公開】
https://youtu.be/_LWHF5NbZCI

テレビシリーズ
『輪るピングドラム』
【製作:日本 2011年放映(全24話)】
https://youtu.be/BlEmAcDm8pY 

人間は、何を以て「大人」になるのだろうか。

1990年代後半に放映・公開されたアニメーション『少女革命ウテナ』とその劇場版である『アドゥレセンス黙示録』。
全3クール(39話)という放映期間と、テレビアニメの特徴でもあるセルバンクの多用を活かしたテレビ版と、上映時間が87分あり、テレビ版に比して3DCG等の映像技術を強調して制作された劇場版では、基本的な設定のほか、描かれるテーマも、根幹を同一としながらも異なる点が多い。

このメモでは、テレビ版と劇場版での役割が大きく異なる「自動車」に着目する。また、自動車のモチーフは、両作の監督である幾原邦彦が2011年に手がけた『輪るピングドラム』でも登場し、『少女革命ウテナ』2作での役割をさらに延長するような意味合いを持つ。

この3作において自動車は、視聴者に「"大人"になるとはどういうことか」「人は"大人"になったあと、どのように在るべきか」を示すモチーフである。
『少女革命ウテナ』の製作チーム名「ビーパパス」が「大人になろう」を意味することからもわかるように、同作ならびに映画『アドゥレセンス黙示録』では、主に中学生〜高校生、10代半ばから後半の登場人物たちが「大人になる」ことを模索する様子を描いている。

テレビシリーズでは、「永遠」や「自分ではどうすることもできない願いが叶うこと(他者を思いのままにする等)」といった揺るぎない幸福=「世界を革命する力」を求めて、薔薇(黒薔薇)のデュエリスト達が決闘を繰り広げる。
同作においては、デュエリスト達、ひいては彼らを操る鳳暁生が求める「揺るぎない、絶対的な幸福」=「自分の意に添うように世界を革命すること」そのものが、現実にはありえない、子どもじみた願いだと定義される。
決闘時に出現し、最後の決闘の舞台にもなる、おとぎ話に登場するような3DCGの城や、終盤に頻出する「王子様"ごっこ"」という言葉、同じ場所を回り続けるメリーゴーラウンドに乗った王子様・ディオス(そして彼が歳を経た姿である暁生)といった要素は、いずれも作中では否定的に捉えられる。
決闘のある回では必ず登場し、徐々に演出を変えながらも繰り返される「絶対運命黙示録」のバンクシーンや、外の世界と時間の流れが異なる(学生は歳を取らない)鳳学園という舞台が象徴するのは、叶わない「世界の革命」を求めて堂々巡りをする、大人にならない子ども達の姿だ。
一方で、ウテナとアンシー、そして生徒会メンバー達は決闘を経て自分の願いと向き合い、自分自身の意識や行動を変えるきっかけを掴んでいく。
「世界を革命する」という言葉の陰で、本作において登場人物たちに設定されているゴールは自己の内面を成熟させ、精神的に大人になること、すなわち自分自身を革命することである。
この「精神的に大人になること」こそが「ビーパパス」の指す「大人」であり、作中ではこれとは対照的に、「行為として大人になること」が頻出する。

テレビシリーズにおいて、「行為として大人になること」を象徴するのは自動車とセックスである。
鳳暁生が物語の核として登場しはじめる25話以降、このふたつのモチーフは頻出する。とりわけ自動車は、テレビシリーズでは「形だけの大人」である暁生を象徴するものとして、否定的なイメージを持って描かれる。
自動車は所有することやそのモデル、スペックがステータスとされる傾向にある乗り物で、「欲望」を具現化したものであるともいえる。暁生の自動車は法外な速度で走るスポーツタイプであり、一見して「世界の革命」に向かうための近道であるようにみえ、これに呼応して物語そのものの速度も上がっていく。
また、主要登場人物の中で自動車を運転できるのは高等部3年(=18歳)である暁生のみ、という描写は、彼が「大人」であることを強調する。また彼はウテナやアンシーを含めた周囲の女性と肉体関係を結び、「大人の行為」であるセックスに手馴れた人物でもある。
しかし、並外れた速度の自動車と性的なテクニックを以て、自らの権威や優越を誇示する暁生の向かう先に、「世界の革命」は存在しない。
暁生編の決闘場ではスポーツカーが垂直に乱立しており、勝負が決するとそれらのヘッドライトが一斉に点灯して逆さまの城を照らし出す。この鋭い光の群れは、アンシーを苦しめる百万本の剣(≒「王子様に願いを叶えてもらい、幸せになりたい」という他律的な欲望の象徴)に通じており、本作が目指す精神的な成熟とは対照的なものだ。
「薔薇の花嫁」「魔女」という役割から解放されたアンシーが、ウテナを探しに学園を出てから自らの足で歩き続けるように、テレビシリーズでは自動車は拙速と利己心の象徴として忌避的に描かれる。
本作では「大人がするとされる行為をすること」と「精神的に大人になること」は明確に分けられている。

なお、テレビシリーズでは自動車のほか、3DCGも前向きなモチーフとしては使われていない。(作品ロゴの「萼=ウテナに支えられて咲く花=アンシー」という図式すら、ふたりが並び立つという究極的な目的には沿わないといえる)
本作は制作に割けるリソースの限られたテレビアニメというメディアの特性を極めて前向きに捉えた作品である。同じセルを使い回すセルバンク(バンクシーン)に意味を持たせたことをはじめ、背景とセルをずらすことで画面に動きを出す「引きセル」演出の多用など、テレビアニメの平面性を最大限に肯定し、活かしている。
これに対し、立体的な世界観の構築を目的とする3DCGは対立するものとして描かれている(三次元世界の再現を目的とする3DCGが、幻に過ぎない城を描くために使われているのも風刺的だ)
テレビシリーズ『少女革命ウテナ』は、「精神的な成熟」を推進するとともに、テレビアニメだからこそ可能な表現を追求した作品だといえる。

一方、テレビシリーズから2年後の映画『アドゥレセンス黙示録』では、自動車と3DCGに対して大きな譲歩がなされている。
「大人がするとされる行為をすること」と「精神的に大人になること」を切り分けて捉えている点はテレビシリーズ同様であり、暁生やアンシー、西園寺といった登場人物たちは肉体関係を交わすものの、やはり彼らは時間の経たない学園内で堂々巡りをする子どもである。
ただし、自動車はその使い方次第では「外の世界に出る=精神的に大人になる」ことを手助けするツールとして、テレビシリーズとは姿を変えて現れる。
本作での暁生は外の世界に出るための自動車の鍵を紛失し、「動かない自動車は腐ってしまう」という言葉を残して投身自殺する。
代わりに「動く自動車」となるのはウテナ自身であり、彼女は洗車機に取り込まれて自動車と化す。この自動車を動かす鍵は、彼女の「薔薇の刻印」である。
テレビシリーズで「薔薇の刻印」を与えられた子ども達がいかに自らと向き合い、行動するかが問われていたことを踏まえれば、自動車というツールを動かし、その行動を運転者に委ねる鍵は、「薔薇の刻印」の在り方と重なるといえる。
自らハンドルを握り、自動車を運転するアンシーは、高槻枝織が変身した自動車をはじめとする他の自動車とカーチェイスを繰り広げながら「学園の外」へ向かう。
ウテナが変身した自動車そのものをはじめ、カーチェイスやそれらを実況する管制室といったモチーフには3DCGがふんだんに使われており、本作と同系列のスターチャイルドレコードが製作に関わる『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦艦ナデシコ』のオマージュとも受け取れる。
アンシーは同じく外の世界を目指す生徒会メンバーのサポートを受けつつ、自分の意思で道を選び、学園の外へ出る。
ラストシーンで人間の姿に戻ったウテナとアンシーが語り合うように、自分で自分の進む道を責任を持って決めることが「大人になること」であり、そのためのツールとして自動車は機能するし、セックスは精神的な成熟の上に行われてはじめて「大人の行為」となりうる。

1980年代後半から1990年代、『AKIRA』や『エヴァ』をはじめとするロボットやそれに類する機械を扱った作品や、『トップをねらえ!』といったOVA作品では、機械を巧みに操って敵を倒す描写や性描写が頻出した。『エヴァ』のように、世界の危機を救う任務を14歳の少年に背負わせるという、行為と精神の乖離に自覚的な作品もあるが、基本的には「大人がするとされる行為」が過激な描写として前面に押し出され、精神的な成熟は後景化する傾向にあった。
1990年代を締めくくり、「Adolescence=青年期の終末」と名づけられた本作は、使い方や目的がわからぬまま機械や性的描写に溺れる傾向のあったアニメーションとその消費の潮流に理解を示しながらも、その流れに楔を打とうとしているようにみえる。
それを行う主体が成熟していればこそ、機械やセックスは豊かな意味を持つものになりうるのだ。

また、アンシー自ら自動車を運転する描写は、テレビシリーズで39話かけて描いた「女性が自らの人生をハンドリングできるようになる」過程を一挙に体現したものといえる。
自身の意思を持たず、「薔薇の花嫁」の役割を着せられ、エンゲージした相手の言いなりだった彼女が主体性を持つことは、ウテナを取り巻く「女の子は王子様になれるのか」という問いと併せ、女性が男性の抑圧や庇護を受けなくとも自我を保ち、自身の人生を作り上げる様子を描くものだった。
映画版ではウテナとアンシーが肉体的により親密であることや、ハイライトともいえる水に満たされた薔薇園でのダンスシーンが文字通り「パイプカット」によって為されることから、男性の存在のオミットはより強調されているといえる。

では、主体性を持ち、自身の人生の操縦の仕方を覚えて、外の世界に出ることができれば、そこがハッピーエンドなのだろうか?
そうではない。映画版で最後にウテナが口にするように、道は常に続き、大人になった人は自身の行動を問われ続ける。
『輪るピングドラム(2011年)』に登場する時籠ゆりは、『アドゥレセンス黙示録』のラストシーンのアンシーのその後のような人物像を持つ。

彼女は、現実には男役主体である宝塚歌劇団を模した「サンシャニー歌劇団」で娘役として舞台の中核を占め、自動車やバイクを自ら運転し、相手役の女性と肉体関係を持つ、その生に「男性」を必要としない極めて自立した大人の女性だ。(ゆりと多蕗との連帯は、多蕗が男性であることに依拠しない)

しかし、彼女は自身に主体性を与えてくれた存在である荻野目桃果(≒ウテナ)を物理的に喪ったことで、加害者である高倉家への憎しみを募らせ、また、桃果の妹・苹果とのドライブの末に、同意なく肉体関係を持とうとする。
これは、精神的な成熟を獲得してもなお人生には何が起こるかわからず、そのたびに人は自身の行動を問われ続けることの象徴だといえる。
特に苹果とのドライブは、テレビシリーズの『ウテナ』で暁生が行っていたことそのものであり、たとえ「外の世界」を見つけて大人になってもなお、利己的な欲望は常にひそみ、人を歪めうることを示している。

『ウテナ』シリーズをリアルタイムで視聴していた世代が20代後半〜30代となる時期に放送された『輪るピングドラム』。
桃果とゆり(桃果と多蕗)の関係はウテナとアンシーのものに近く、彼らが作中でたどる顛末は、視聴者に「あなた達は成熟した大人になることができたか、成熟し続けられているか」と問うているようにみえる。(音楽的な才能が弟より劣る多蕗を精神的に虐待する母親の声優が、『ウテナ』でピアノの才を発揮していた薫幹と同じ久川綾であることも、一連の問題意識が地続きであることを示唆する)

以上のように、『ウテナ』シリーズ〜『輪るピングドラム』における自動車の描写は、「大人になること」「大人でい続けること」とはどういうことかを視聴者に投げかけるものであり、幾原邦彦の人に対するシビアかつ誠実なまなざしが窺えるものだと感じた。

なお、『輪るピングドラム』ではゆりの自動車シーンを含め、3DCGがふんだんに使われているが、その中でもプリンセス・オブ・クリスタルとテディドラムのバンクシーンでは、アニメーションというメディアならではの無機物と有機物の拮抗が表されていて興味深かった。(テディドラムの脊椎を階段に見立てて1段ずつ降り、性器に向かっていく様子など)
幾原邦彦作品と3DCGの関係についても、いつかまとめてみたい。

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