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Pictureについてのメモ1

「展覧会の覚書より、『絵』について」

先日、お話ししましたように、油彩と他の素材で描いた『絵』を、同じ場所で展示します。

『絵』は、描く素材や、道具によって、その内容も自然と変わらざるを得ません。パステル、鉛筆、絵の具、インク等々。筆なのか、指なのか、布なのか等々。紙なのか、布なのか、板なのか、金属なのか等々。

無数にある組み合わせの中で、幾つかの選択を作り手は選択します。
触覚と視覚、絵を描くプロセスの中で画面に生じるイメージと身体的な感覚とが、一緒に旅をします。私は日々描いている『一枚さん』を『生存絵画』と位置付けていますが、『Picture』も相互に関係しあっています。


『Picture』は乱暴に言ってしまえば、『往きつ還りし物語』です。
『物語』は、映像作品同様に、ここでもたち現れます。たらす『Picture』の時間は、映像作品の時間は、『物語』がもたらしますが、そのあり方とは異なっています。作者と『絵』が時間の長さを決めるのです。良きにしろ、悪しきにしろ、確固としたテーマやコンセプトがなくても、『絵』は、画面に一つ絵の具を置いた時に現れてしまうものです。それを見て揺さぶられた言葉が飛び出してこないように、塗り、描いて行きます。

 そういう時間は、『絵』を過ごす、『絵』と生活すると言っても良いかもしれません。
 日々の時間と距離の感覚によって、絵も私も大きく影響されます。逆も然りです。その距離が遠くなり、聞こえないくらいに。また、近すぎて、耳を覆うくらいに。描画材料と道具が案内人となって、絵の旅に出かけては、還ってきます。中には、一週間に、1kmくらいしか進まないのもあれば、30分で10kmも進んでしまうものもあります。『Picture』は朝に往き、『一枚さん』は、夜に還ってきます。
 映像作品のHEIDI-53『ECHO』と『Picture』は繋がっています。『ECHO』では、絵を描いている姿を後ろからずっと撮影しています。私は、作品としてではなくても、絵をずっと描いていたことを、思い出したのです。


2021年9月5日改訂 (2017年5月8日初)

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