不満
毎日を過ごすにしても、落ちついて生きていないと安心も少ない、
楽しいことやりたいこと、色々あるかもしれないが、
出来ることの方が少なくなってきていると感じれて、
日々、自分が出来ることは目減りし、
お終いに確実に向かっていると実感する。
楽しかった過去は意味をなさなくなり、
新しい現実が人を縛るようになっていく、
毎日のように現実がやってきて、
人の努力をむさぼるが、その後、
努力をしたということさえ残せない弱い人間だけ吐き出す、
出力された弱い弱い人間は、世の中を渡れるほどの何かを持っている、
わけではない、努力を求め続ける現実において、
どれだけ自分を節制し、身を削って何かを為しても、
全く納得されないし、毎日を不平不満で過ごしているのは確かだ。
楽しかった時間はどんどん過去になっていく、
縛りつける現実がどんどん露わになっていく、
現実に縛り付けられた結果、全ての人達は、
表に出ることも無く、どんどん狭量に堕落して、
努力さえ出来ないまま死に絶えていく。
にもかかわらず人は容易に努力を求める、
努力出来る人間も資本も資源も限られてるのに、
自分の社会は努力で出来てると考えたいのか、
努力をしたことが無いと簡単に人を決めつける。
努力しない人間だから何かが出来ない訳ではない、
生まれてきて何もかも出来ないのは、
努力しないからではない、努力が分からないのだ。
何をすれば変われるのか、何をすればよくなるのか、
最善が分からないからいつまでたっても報われない、
彼らは努力をしてきている。
自分なりに自分の時間を使って日常を、
自分の範疇に収められてるのなら、誰しも努力している。
それを認めずに努力を求めてしまうのは、
努力に仕事量を求めてしまうからである。
努力は仕事量で決定されないものであって、
努力は結果ではない、結果や成果という言葉とは、
ほど遠いところにあるものだと考えている。
努力が実ることのほうが少ないのは、
みんな努力をする方向を個々に決めているからで、
すべての人が努力に対価を求めていないからである。
だが、自分はもう努力したと思ってる。
これから先も努力し続けるだろうし、
生きていて努力しないことは無いだろう、
自分の障害に向き合って生きる事には、
かなりの努力が要るのは確かである。
それをなんとなくわかってるので、
毎日を過ごすのに不満が残ってるのかもしれない、
僕は自分が満足できない人間であることを受け入れられない、
結果として残るのは不満感である。
けれど努力ならしてる。
これ以上の努力は出来ないほど我慢している。
周りが変わってくれなければ僕は壊れるだろう。
これは確実だ。
おしまい
いただけるなら、どこまでもおともしますとも!