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人間の境界

 人間と機械の違いは何だろうか。
 子供の頃からサイボーグになりたいと思っていた僕にとって、人間と機械の境界は必然的に考えてきたテーマだった。

 最近の人工知能のブームもあり、人間の意識・機械の意識などについて思考を巡らせる人も少なくないだろう。人工知能の幻覚問題なんかもあって、若干不気味な印象を持ちながら意識を身近に感じ始めた方もいるかもしれない。もっとも、なんとなく社会でそんなことをテーマに会話すること自体はそう多くないかも知れないが。

 だが、もっと根本的に僕らの殆どが理解できていないことがある。
 「人間」とはなんだろう?
 僕たちは、本当に「人間」なのか?

 僕たちには感情がある。イメージを抱くこともできる。イメージはいわば頭の中だけで再現できるタイムスリップだ。

 だが、それらは全て「人間」の証明といえるのだろうか。感情も内的思考も、外部環境から学習してしまえば良い。
 現に、ぼくらは他者の笑顔を見て笑い、そして楽しくもなくても心から楽しんでいる振りをすることだってできるではないか。ただインストールされた情報を吐き出しているに過ぎないと言われたとき、僕らはどう反論すれば良いのだろう?

 そもそも、僕たちは誰一人生まれた状態のまま留まることはできない。生きることは進化することだ。それは生物としての意味に留まらない。生物としての成長よりもっと早く大きな影響を与えるのが外的情報だ。


生まれながらのサイボーグ 
アンディ・クラーク(著)

 僕が以前よりそうした考えを強く持つに至ったきっかけとなった書籍が上のものである。哲学書だが、かなり読みやすいので哲学書を読み慣れていない人も気軽に手にとってみて欲しい。人間そのものに対する価値観も変化するだろう。


機械の中の幽霊
アーサー・ケストラー(著)

 超有名な一冊だが、思考についての価値観を揺さぶられること必須。有機体の知覚やシステムについての考え方に僕はかなり影響を受けた。

 人間と機械について洞察を深めてくれた本はまだまだたくさんあるので一回では紹介しきれないが、僕自身が大好きなテーマなのでこれからも勝手にどんどん紹介していくと思う。と言いながらもとりわけお気に入りの本については黙っていられないので、今回は唐突に語ってみた。

 とりあえず、になってしまうが僕の中では一つ今のところ人間と機械の境界は「限界」というものにある気がしている。それぞれの限界の特徴が、お互いを分けているのではないか。

 そうした意味では、人間の限界を更新し続ける限り人間は機械に近づいていくだろうし、機械の限界もまた人間と機械の間の超えられない溝になるだろう。僕たちは自分が思っている以上にただのシステムに過ぎないかも知れないし、案外有機体と無機物の違いなんて些細なものかも知れない。

 僕らは神ではなく、機械になっていく。
 それとも僕らは人間という機械なのか。

 そして、僕たちは「生きている」のだろうか?

 今僕に想像できるのは、どんな結論が出される日が来ても、人間に変わらないものがあるとすれば外部からインストールされたやはり情報を愛して縋り続けるだろうということだけだ。

 とても愚かなことかも知れないが、些細な毎日の僅かな時間が僕は大好きだ。僕がサイボーグになっても、目の前の存在がサイボーグになっても、きっと愛の形は変わらない。時間を止めたい気持ちもそう変わらないだろう。

 究極、身体など無くなり僕の意識だけが存在がするフラスコの中で生きたとしても、きっと僕が見る空は青く風が吹き、大事な思い出という夢を見ているだろう。

 

 

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