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努力すれば叶うという言葉は劣悪なポルノ

「努力すれば叶う」
「頑張る」
という言葉が嫌いだ。

正確に言うと、嫌いになった。

理由は、努力という言葉がしばしば他者から「努力しなさい」という文脈で発せられ、同時に「(努力していない)今のあなたはダメ」という、今あるがままの自分を否定する言葉であるから。

「努力すれば叶う」という言葉には、
・叶えられなかった人間は努力をしなかった
・努力しない人間はダメだ
という糾弾が内包されている。

人を糾弾するのは気持ちがいい。
努力崇拝、努力至上主義というポルノ、つまり一部の人間を気持ちよくさせるだけの歪な言葉のように感じられる。

努力では解決しない

そもそも、努力によって解決することはほぼない。
成功は、運と錯覚資産と構造によってもたらされる。

紹介したいのは2冊の本だ。

まず1冊目。ふろむださんの『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』

著書によると、成功は錯覚資産と運によって決定づけられる。

実力主義を鵜呑みにすると、実力だけでは勝てない世界なのに1万時間の法則的な時間量投下に明け暮れてしまい、いつまで経っても成果を出せないという地獄に陥りかねない。

努力は手段だ。
どこまで行っても。
人間界にはバチが当たるとか徳を積めば報われるとかは存在しない。
努力は裏切られ、世渡りが上手いだけの悪いやつが上手い汁をすする。


そして2冊目。

『自意識(アイデンティティ)と創り出す思考』

この本は、人の行動の指向性や結果は、個々人の努力によってではなく「構造」によって決まってしまうのだと指摘する。


たとえば、「痩せたい」という目標を持っていた人がいるとしよう。

この人は、「太っている自分は醜い」ということを他者から指摘され、ダメな(太っている)自分の対理想として、「痩せたい」という目標を掲げた。
心理学をかじったことがある人ならすぐに分かるように、「痩せたい」「食べちゃダメ」を自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、食べ物のことはますます強調される。

自意識やなりたい自分、そしてコンプレックスを基準として実行される行動を、「揺り戻し構造」と呼ぶ。

好きなモノを食べてダラダラしたいという欲求と、痩せてスタイルを良くしたいという両立し得ない欲求が対比されるので、少々の成功はあっても長期的に健康でい続けられる可能性はほぼゼロに近いだろう。


そうではなくて、「前に進む構造」を手に入れるためには、自意識をガン無視する必要がある。

自分は何者になりたいか、という自意識を手放し、長期的な志と価値観にフォーカスを当てなければ、目標実現は程遠い。

先ほどの例でいうと、自分が今太っているかどうかということは一切どうでも良くて、「健康な安定した人生」「好きな服を楽しむ人生」のために、食事量を制限するという選択を日々重ねていくのが、前に進む構造ということになる。(詳しいノウハウは書籍を参考にしてほしい)


これら2冊の書籍で重要なことは、
・努力(=自己、自助努力)
・成果、実現
の2つは、実は全く関連がなかったということだ。

頑張れという言葉で殺されてしまう人々

そして、僕が「努力は劣悪なポルノ」という指摘をするのは、「努力せよ。でなければ落伍者」の世界観のなかで淘汰されてしまう人たちがいるからだ。

もちろん世の中には、頑張っている人と頑張っていない人がいる。それは間違いないだろう。
でも努力の基準も方向性も人によって異なる。
そういう曖昧な観念のもとに「努力せよ」と言われてしまうのは、内向型を特性とするアダルトチルドレンにとってはあまりにキツい。

「うつ病の人に頑張れと言ってはいけない」というのはもはや常識になった。

が、頑張れと言ってはいけないのは対うつ病の人々だけに限らない。
アダルトチルドレンの人々に対しては(というか誰に対してであっても)、「頑張れ」と言うことは、その言葉の断罪性を無視したあまりにも暴力的な行為だ。


機能不全家庭を生き抜いてきた人たちの中に一定数、親の期待に応えるために、聞いているこちらの胸が痛くなるほどの努力と頑張りを積み重ねてきた人がいる。
どうしてそこまでできたの?と思うような貢献を、他者に提供できてしまう人がいる。
彼らにとっては自己とは卑下すべき存在で、努力や貢献によってのみ自己が承認される。

そういう人たちに、
「もうあなたは十分頑張ってきたんじゃないんですか」
という言葉をかけると彼らは、はっとしたように一瞬固まって、そのあとはらはらと涙を落とす。

僕は、一体どれだけきついことに耐えてきたんだろうと思いを巡らすことしかできない。
彼らのたゆまぬ頑張りを、他の鈍感な人間たちが放置してきた痛みの存在を、ただ認識してあげることしかできない。


何気なく発してしまう「頑張れ」という言葉。
その相手はもしかしたら、もうすでに、自分が壊れてしまいそうになりながらそれでも誰かのためを思って頑張ってきた人かもしれない。

僕たちは違う人間だ。
だから、無意識に相手の心の一番柔らかいところに無知のナイフを突き刺してしまうことがある。
でもそれは、ほんの少しの想像力で回避できることなのだ。

努力は結果ではないという事実で報われる

努力=結果の公式が欺瞞だということになると、ある種の救いが生まれることも解説しておきたい。

アダルトチルドレンの人々は、多かれ少なかれ自罰的な傾向がある。

努力は自分のせい。
結果も自分のせい。
親に愛されないのは自分がダメなこどもだったから。

そうやって、もう少しだけ努力したら愛してもらえる。ここにいていいと言ってもらえる。そんな期待を抱いている。

でも、これまで見てきたように努力には価値はないのだ。

世界には目的地に辿り着くための正しい構造と、効率的ではない間違った努力が存在するだけである。


ただしその事実をつまびらかにしても、アダルトチルドレンが重ねてきた努力が無駄だったというわけではない。

「努力=結果」ではないので、結果が良くなくてもあなたの価値は無くならない。
そしてもちろん「努力=あなた自身」でもない。
成功できなくても、努力しなくても、あなたの価値は無くならない。

努力という言葉の欺瞞を暴くと現れるのは、
努力なんかしなくても今ここに存在しているあなたはまず素晴らしい。
というごく単純な事実だけだ。


そしてアダルトチルドレンはそもそも「自分はダメ」が出発点にあるので、生来の揺り戻し構造を抱えている。

「ダメじゃない自分」を思い知ることができなければ、本当は何をしたいのか、何をするのが楽しいのか、といった自分主体の感情を取り戻すことができない。
アダルトチルドレンがしばしば趣味がない。好きなモノがない。と言うのは、彼らには何かを好きになるのに親の許可が必要だったからだ。

「何を好きになっても、どんな人生でもOK」ということを心底納得できなければ、人生の目的としての志と価値観を設定することはできない。


あなたはもう十分に頑張ってきた。
これ以上には頑張らなくていい。

そこから始めなければ、本当の意味で自分の人生を取り戻し、それを楽しむ猶予というものは生まれてこないのだと思う。

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