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自分が自分でなくても他人ではない。自分でない自分らしさを好きでいよう(ベターアイデア? v3-60)

タウリン1000mgだと効果ありそうだけど、タウリン1gだと効果薄いような。少なくとも前者の方が相対的には効きそうな「イメージ」。

薬の錠剤は、2錠飲むのと、1錠飲むのでは、合計の量・効果は同じだとしても、2錠飲む方が効く・効いていると人間は思うらしい。たぶん1錠の方がパッケージなど含めて低コストで製造できる気もするし、処方薬だと患者が選べるわけでもないが、選べるならメーカーは2錠などにするらしい。確かに、ボクはたくさん飲んだ方が効きそうな気もする。

インフルエンザ予防接種待ち。「痛い!」「え、そんな痛いか?」「はい、痛いです。」って会話が聞こえてきた。で、「お大事に。」「ありがとうございました。」というやり取りの後、女性が出てきた。マスクでわからないが30代、40代か。おそらくインフルエンザの注射のはず。で、次にボクが呼ばれた。「痛いんですか?」「いや、痛くないよ。」と先生。「射す前から、痛いって言い出すんだよ。最初からそう脳が決めているんだよ。」なんて笑いながら。で、ボクは別に痛くなかった。

胃カメラなど腸内を調べるカメラ検査では、痛かった・疲れた・もうイヤなどのマイナス反応は、持続時間とはあまり関係無く、終る直後の痛さによるらしい。例えば、10分で終って、最後がとても痛かったら(例えば、痛みレベル10が最後の1分続いたとする)、30分かかっても最後があまり痛くない(痛みレベル10は途中で1分経験したが最後の20分は痛みレベル3だとする)と、30分の方が良かったと感じるらしい。だから、「あの医者、下手くそだ。」「もうココでは二度とやらない。」なんて口コミ・風評被害を避けたいなら、痛くない時間を多少、最後に"つくり出す”恣意性が必要かも。

ところで、ボクは薬はほとんど飲まない。効かないと思い込んでいるのと、なんだか嫌いだからだ。小さい頃から薬が効かないと親から言われており、自分で選択できるような年齢になってからは、薬という物質を飲むのがなんとなく嫌いに。結局は自身の免疫次第と思い込んでいるところや、薬に頼らず治す気概が好きだったようで。飲まないようにしてきた/している。

もちろん飲む時はある。が、”機械”である人間のボクに効くはずの薬が、意識的に薬が効かないと思っているためか、やっぱり効かない模様。「え、まだ熱下がらないの。」・「え、まだ痛みひかないの。」なんて言われて来た。熱は体温計が教えてくれるが、痛みは主観的なので、何かボクが間違っているのかもしれない。。。

そして、高校生の時に、何かの本でプラセボ(プラシーボ)効果(偽薬)について読んだ際に: え、そうなの? 偽薬で同じ症状が治るひといるの? 偽薬で副作用すら出る人がいるの? そもそも薬は効かないひともいるの?「気持ちの問題」や「病は気から」なんてことは当然、感じてはいたけど、ちゃんとした大人の日本人が集う製薬会社が製造する「薬」でそういう現象が起こるの? それからますます薬を信じなくなってしまったのかも。

人間って、機械なのか、何なのか。外部的なコントロールで脳に電流を微弱に与えることで、意識を変えることができるらしい。内部的な生理的に〇〇をする反応が脳みそで起きた後に、「あ、右に行きたいな。右に行こ!」と思うらしい。自分がいるのか、いないのか。動物と同じなのか。

毎日、自分の細胞は生まれ変わる。ある時点で構成していた細胞はいつかまるまる入れ替わる。自分は自分なのか。鎌倉時代の建築物。補修を続けて、もう全てが現代の木材で、塗料で、畳で、金属物で、配管で、空調設備で、そして現在の職人が作った、としたら、鎌倉時代の建築物と言えるのか。デザインだけ・見た目は同じだろうけど。

ま、時計は止まらないから、今のボクとは全く違う過去のボクには戻れないから、日々、少しづつ変化しているなら生まれてからずーっとボクはボクですね。0歳のボクとは違うけど。

そして、実は自分の思考・行動は、自分が自由に決めていると思っていても、実際は、生理的に、遺伝子的に反応しているだけでも、別にどうだっていい。自分が自分ではなくても、薬が効かないできそこないの機械でも。少なくとも他人ではないのだから。

薬が効かない自分じゃない自分がいて、注射を痛いと思わない自分じゃない自分がいて、薬は2錠の方がより効き目があると思う自分じゃない自分がいて、でも、これらは他人ではない。自分じゃない自分がこんな風に自分らしくあるのがなんだか好きだ。

今日のベターアイデア:
人間が、脳みそが、気持ちが、心が、なんだかよくわからないし、遺伝的・生理的に脳みそがコントロ-ルされていても、動物となんら変わらなくても、電気信号で自分の意識が、幸せが、能力がコントロールされ得ても、つまり自分が自由に決めているが誤解であっても、他人でないのは明らかだから、こんなことがどうであろうと、自分じゃない自分であろうと、そんな自分じゃない自分が持つ自分らしい自分が好きでいい。自分を好きであるのは常にベターアイデアだ。

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