ぼんじーの独り言

独りしか勝たん

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最近の記事

風化しないもの

人は本当に現在を生きる生物である、とつくづく思う。かつて、友人と精魂注いで取り組んでいた様々な物事、行事は、たとえそれが一年前のものであったとしてもすでに風化し、劣化している。これは、端的にその時一緒に切磋琢磨していた人々と現在は交流を絶っているからだろうか。その物事に連関していた当時の人々との継続な交流は、過去を過去のものとしない、つまりは記憶が風化するのを防除する作用をあるいは果たすのかもしれない。だとすれば、そういう自身が真摯なる気持ちで参画した行事、その時の心持ちはそ

    • ラベリングが許されない時代

      個人に対するラベリングが許されない時代になってきた気がする。フェミニズム運動というのは、女性の地位向上というのもそうだが、根本的には、個人を男や女というラベリングではなく、個人そのものとして見るべきである、見て欲しいという根源的な欲求の顕れであると私は思っている。この根源的な欲求において、男女の統計的有意差の研究はあまり意味をなさない。統計は個人を語るものではないからである。だが、個人を別の個人が知り尽くすのもまた不可能ではないか。他人が初対面で触れ合う別の個人を測るには、そ

      • 芸術は人間中心主義から脱することはできない

         芸術は人間中心主義から脱することはできない。ほとんどの芸術家はこの当たり前のことを実は受け入れていない。少なくとも、自覚していても向き合ってはいない。彼らが礎としているところの『真』『善』『美』『普遍性』やら、『霊性』とか『神性』とかは、すべて人間側の都合に過ぎない。言わずもがな、エンタメ的な芸術もまた、人間の快楽を追求したものだから人間中心的である。そして、これは別に悪いことでは無い。(いや、はっきり言ってしまえば、すべての人間の行為は人間中心主義だろう。)しかし、超越的

        • 因果連鎖は存在するか

           因果連鎖は存在するか。因果連鎖が存在するとすれば、一切の自由意志が否定される。自由意志が否定されれば、運命論的に物事が決めつけられ、主体にかかるあらゆる責任に懐疑がもたれる(法的な責任の定義は別である)。古典力学は実際、未来予知を一大目標に掲げたわけだが、しかし、不完全に終わった。しかも、ミクロ系では量子力学の台頭により確率論的解釈が主たるものとなった。因果連鎖の思想はこの時点で実質破綻したわけだが、それでも生物学では、現象の因果連鎖の解明が主たる目標であるし、よほどミクロ

          個性の強調に伴う無個性の現出

           個性の把握や創造は、自己の輪郭を決定する上で強力な効果を持つし、自己認証による自己の恒常性の保持の上でも重要な役割を果たす。しかるに、それが行き過ぎたのが現代だろう。現代は、個性の把握と創造を過剰に尊重するあまり、その近道としてのメソッドが次々と提示され、パターン化してしまった。我々が個性を強調する場合は、だいたいメソッドが固定化している(もしくは前例と類型化する)ため、却って、類型化された無個性さが現出するに至っている。結局、個性を強調するというメソッドだけが先走りし、内

          個性の強調に伴う無個性の現出

          人が希求するのはあくまで絶対的な倫理や価値である

           科学が台頭する現代、人の持つ倫理観や価値観を、より論理的にもしくは科学的に追求しようという試みがある。特に、ビジネスマンは人々が普遍的に(統計的に)何を希求するか、何が価値を持つのか、をその職業柄、気にしやすい。また、生物学者は行動神経生物学から、実質的に人を遺伝子ビークルとみなして、人が普遍的に(統計的に)何に対して価値を見出すのか、また、ヒトの現代の倫理観はどうして、このように発展したのかを説明しようと試みる。しかし、思うに人が希求するのはこのような論理から導かれる相対

          人が希求するのはあくまで絶対的な倫理や価値である

          秒速5センチメートルの恐ろしさ

           この映画は、拗らせた恋愛映画であるという見方が一般的だと思うし、実際、それには違いないのだが、ただの恋愛映画ではないだろう。この映画の恐ろしいところは、明里という人物は深遠なもののメタファーであり、その表現の筆頭候補が『恋』であって、これが『夢』とか『純愛』とか『美』とか『願い』とか『世界平和』とか『道』とか『天才』とか、要するに、なかなか手に入れるのが難しい、もしくは到底手に入らない、ある人間を永遠に捉えるポテンシャルを秘めているものであれば、何にでも当てはまることであろ

          秒速5センチメートルの恐ろしさ

          善悪

          人工的な被造物でありたい。何事においても冷笑的で、ゆえにあらゆるものに対して寛容的な人形でありたい。毎夜、眠る前に真っ白な着物を死装束のように身につけたい。 物語のリアリティにおいて、もはや善悪の対立が正義の対立であってはならない。視点移動においていくらでもひっくり返る善悪は、陳腐である。純粋な悪は、より狡猾で正義の色などお首にも出さず、常に自身の刹那的快楽の求道者でなくてはならない。そのために正義を利用するに過ぎないのである。肉体はただの快楽を発生させる装置に過ぎず、故に

          シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 感想

          *ネタバレ注意  絶望的な物語と幸福な物語、どちらの方がその作品のエネルギーが高いかと言われると、私は前者と答える。絶望している人間は、その絶望の状態から脱するため、果てはその絶望を逆に食らいつくそうという覚悟さえ持って、これをどうにかしようとする。実際に、多くの逡巡と、重大な決断と実際的な行為が見られる。その思考と行為の深さは凄まじい。絶望が深ければ深いほど、その具合は度を増していく。  翻って、幸福な人間は、自身の状態から脱しようというエネルギーが薄い。既にある程度幸

          シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 感想