見出し画像

善悪

人工的な被造物でありたい。何事においても冷笑的で、ゆえにあらゆるものに対して寛容的な人形でありたい。毎夜、眠る前に真っ白な着物を死装束のように身につけたい。

物語のリアリティにおいて、もはや善悪の対立が正義の対立であってはならない。視点移動においていくらでもひっくり返る善悪は、陳腐である。純粋な悪は、より狡猾で正義の色などお首にも出さず、常に自身の刹那的快楽の求道者でなくてはならない。そのために正義を利用するに過ぎないのである。肉体はただの快楽を発生させる装置に過ぎず、故にその消滅たる死に恐れを抱かない。いや、肉体の消滅の瞬間でさえ、快楽を味わうよう調整するかもしれない。正義の対立における陳腐な悪は共通イデオロギーに支配された画一的群衆であるが、純粋悪はあらゆる正義を腐敗させるような腐臭を放つ寄生虫であり、単独行動的である。たとえグループを作ったとしても、単独的な個体が、刹那的快楽の求道という点でのみあくまでビジネス的に目的が一致し瞬間的かつ表面的に交わり、群をなすに過ぎない。故に裏切りという概念は存在しない。そもそも信頼という概念さえ存在しないからである。グループの大きさに加え、そのつながりの深さそのものにおいても、後者は前者に遠く及ばない。

こういうタチの悪い悪の徹底ぶりが書かれた本は意外と少ない。最近の流行は、最初に記述した善悪の同一性である。それはコインの表裏に過ぎないものである。そういう点では、ヒトラーもまた上述した陳腐な悪にすぎず、タチの悪い悪ではないと言えるかもしれない。それよりは、ヒトラーという巨大な正義にタダ乗りし、旨い蜜を啜ったいくらかの『小市民的な』人間こそが狡猾であり純粋悪と言えるかもしれない。そういう人間はいくらかいるだろう。例えば、カラヤンはナチ党に入党し、それによっていくらかの名声を得た。ナチスとは関係ないが、別の種類としては、『ベニスに死す』を製作したヴィスコンティは、絶世の美少年『タージオ』役のビョルン・アンドレセンを美の玩具として搾取した。そういう一種目を背けたくなるような、グロテスクな、矛盾した、半ば覗き見るような、垣間見えるような、時に多面的で、気持ちの悪い『悪』というものの方が、正義としての狂信的な悪よりも、世界に多く蔓延っているような気がする。世間一般に言われている善と悪、その衝突を鳥瞰し、強いてその対立に参加しようとはせず、彼らを熱し過ぎた愚か者として冷笑し、その環境下において自身の利益を最大化しようとする人間が非常に多いし、むしろそういう人間の方が純然たる真の悪のような気がしてならない。

さて、陳腐な善悪『正義』にはいくらかその思想を成り立たせるための高尚な理由が必要不可欠だが、真の悪にはそのイデオロギーらしき何かを肯定するための理由は必要ない。やりたいからやった、と言ったような欲望に対する従順さが、強いてあるだけに過ぎない。この理由のなさ、もしくはその行動の大胆さに比して、陳腐な理由があるに過ぎないというのがこの真の悪の特徴と言えるかもしれない。正義には理由が本質的で一貫したイデオロギーがあり、筋が通っている場合が多いが、真の悪については、そのイデオロギーやその存在理由を聞いてもピンとこない。ただ、妙に達観したような、ニヒリズムを絞り尽くしたような、高尚な美麗修辞句が並び立てられて、あたかもイデオロギー的な何かが存在するように見えるが、実際は空虚であり、一貫した思想的実体は存在しない。その行動は深掘りしていくと、もはや人の倫理観を逸している場合が多い。だが、そういう真の悪こそ、それが凡庸な人間にも天才的な人間にもある程度備わっている点を考慮すれば、より目に見えやすい『正義としての悪』よりも無視してはならないのかもしれない。こういう『悪』こそ、いよいよ純度高く抽出して物語として書き出すべきときであろうか。『悪徳の栄え』をもう一度読み直すべきかもしれない。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?