betcover!!と梶井基次郎『桜の樹の下には』
こんにちは。
音楽と小説に関してのこじつけ文章をネット媒体で書くことになりそうだったけど、ボツになったのでこっちでやります。果たして自分の力のみで継続できるのか。
さてさて、ワクワクの初めてのライターの仕事(という気持ちで書く)。と言っても小説にも特段詳しくなければ、楽器も弾けないのに、音楽と小説の記事。あれ、間違ってね。
でも芸術は全ての人に開かれてるって聞いたことある貴ガス。ありがとう芸術。こんなドブか人間かで言ったらギリドブの俺にも開いてくれて。
とは言え、専門的な音楽理論も文学論も書けるわけはないので、誰が読んでも分かるようにっていう大義を掲げてるフリをして、あくまでバンドと小説(場合によっては作家)を一つずつ挙げて、テキストレベルの音楽と小説のねじ曲げオナニー理論を展開していきたい所存。書くことの責任は放棄。倫理、またな。お互い成長して再会しよう。
記念すべき初回に取り上げるは、今流行りのbetcover!!と梶井基次郎。どう?渋いっしょ?別に自分が作ってるわけじゃないのに好きなものでマウント取るのガチでキモいよね。作品より前にデカい顔を出してくる手合い。そういう奴の顔に七味を振るバイト、募集します。日当¥11,000、持ち物は悪意とやる気がある方は一味を持参してください。福利厚生充実して〼。
どこかの村の方言、奇妙な風習
件のbetcover!!、2016年にフロントマン柳瀬二郎のソロプロジェクトとして始まり、直近のアルバム『馬』のツアーでは1,300キャパのライブを成功させるという分かりやすい今キテるバンド筆頭。一目で分かるけど、ガチでかっこいいやつ。男前。絶対タバコ吸いながらセックスしてる。
聞いたことがない人はとりあえず聞いてみてほしい。世界観が独特って言っちゃうと簡単なんだけど、betcover!!の詞はどこか旅先の村で偶然聞いた方言みたいな感じがする。不気味で古めかしくて怪しい、聞いたことがあるようなないような、意味がわかるようなわからないような感じ。
そして、その村には僕たちが知らないルールがある。こっちが意味がわかったりわかんなくなったりしている間に、村の住人たちは笑ったり泣いたり、どんどん先にいく。まるで、それが当たり前と言うように。その村の住人たちはただその村のルールに従っている。
なにがおかしいのだろうか。なぜおかしいと感じるのだろうか。
横道にそれるけど、『女神の継承』(タイのある村でとある風習に関するさまざまが起こる話、面白いよ)っていうモキュメンタリーのホラーがちょっと前に話題になった。あれの何が怖いって、どの人がなんのルールに従っているのかが分からないことと、どのルールが「正しい/おかしい」のか分からないこと。信仰の全容が掴めないし、登場人物それぞれが信じてるもののディテールが微妙に違う。だからもちろん観客は全員おかしい気がしながら見るんだけど、登場人物たちの間でもそういう違和感みたいなのを互いに持ってて、それがモキュメンタリーで助長されて伝わってくる。しかも最後に主人公の一番まともそうなおばさんが信じてることへの疑いを吐露するシーンがあるからこれは映画のテーマだと思うけど、何が正しい/おかしいのか結局わからない。あいつを見ておかしいと思うように、あいつは私をおかしいと思っているかもしれない。私は私が当たり前に正しいと思っていたけど、それはあいつも同じで。
あれ、、?私は本当に正しい?見落としているものはない?何か、大切なことを、、?
つまり何か自分の外にある基準は、もう使えない。違和感しかない。だけど、違和感を感じているのがおかしいことなのかもしれない。
もう一つ、横道にそれる。なんか最近Twitter(新X)(俺はこの表記でいく。野郎ども、ついてこい)で短い怪談が流行ってる。「くるむあくむ(@kurumuakumu)」とか「皮肉屋文庫(@steven_pumpking)」とか「狐歪野ツッコ(@kowainotsukko)」とか。YouTubeでも「フェイクドキュメンタリーQ」とか。
これらに共通している特徴は
①何かやばいものを見た経験っていうよりは、「入っちゃいけないところに入った」経験について書かれていること
②入っちゃいけないところには独自のルールがあるということ
③それらに関する説明が不足していること
の三つがあると思ってるんだけど、これbetcover!!の歌詞の世界観に結構重なると思う。①に関してもう少し説明するなら、語り手がこちらの世界にいたままこちらの世界の外にあるものを見るっていう構図ではなく、語り手がそれらのものとが同じ世界にいて、どちらもその世界のルールに従って動くっていう構図。世界がこっちなのか、あっちなのか、はたまたどちらでもない別のどこかなのかはわからないけど、あったはずの暗黙の了解が通じていない。不気味な行為に疑問を持ったら最後、引きづり込まれていく。
サクラーズ・ハイ、あるいは当然の道理
梶井基次郎は20と少しの短編小説を残し、昭和7年に31歳で死んだ。おそらく一番有名なのは『檸檬』という、立ち寄った本屋さんに買ったばかりのレモンを「これは爆弾だ」と妄想しながら置いて、そのまま立ち去るという話。
何してんの店員さん困るよ。
何か不気味で、でもどこか爽やか香りのする梶井の小説の中から、今回betcover!!と取り合わせるのは『桜の樹の下には』。すごく短いからこれもまた、実際に読んでみて欲しい。
綺麗で奇妙なムード。おかしなことを言っている「俺」。何を持って「これは信じていいこと」だと思っているのだろうか。
言っていることは分かる、というより言葉の意味は分かると言った方が正確か。意味は分かるのに、分からない。「俺」は何を見たのだろうか。何を信じているのだろうか。今、何を見ているのだろうか。
登場人物は「俺」と「おまえ」。おまえ。
「俺」はやっぱり、なんというかハイになってるような様子。全ての桜の樹の下に死体が埋まっているわけない。仮に死体が埋まっていたとしても、だから桜が綺麗に咲いているというのは論理が意味不明だ。明らかに虚言なのに、「俺」は信じている。
ただ、もしも本当に、桜の樹の下に死体が埋まっているのだとしたら、、。
おまえは「俺」が言うことを疑っている。「俺」のことをおかしいと思っている。でも、もし本当に、死体が埋まっているから桜があんなにも綺麗に咲いているのだとしたら…
「俺」の村では、これは全くもって破綻した論理ではない。
おまえはどこにいる?
おまえの世界か。俺の村か。あるいは、、。
これはただの創作なのだろうか。それとも誰かにとっての正確な世界の記述なのだろうか。
これはただの創作なのだろうか。それとも誰かが本当に見ている世界なのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?