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「あなたは今幸せ?」と聞かれたら/アメリカ留学日記


"Are you happy?"

こんにちは、アメリカのマサチューセッツ州アマーストに交換留学しているさりです(以下、”ですます”調から”である”調になります。)

最近よくインスタで見る動画。見知らぬ人に道でインタビューして、「あなたは今幸せですか?(Are you happy?)」と聞くもの。多くの人は、”No”と答え、人生で感じている孤独感や行き詰まり感、金銭的・社会的な苦しさを話してゆく。アメリカに今交換留学で来ているからか、道を歩いてて、突然路上インタビューされたらって時々妄想するんだけど(笑)、今日朝(というか昼)に起きて、ぼんやりと鏡を見ていたら、自分の中でしっくりくる答えが見つかったように感じたので、ここに残しておく。

個人的キーワード:自己効力感

まず私の中で、幸せと自己効力感は強く結びついているということ。アメリカに来てから強く感じたのは、「とりあえず自分で動けば、何かが変わる」ということ。例えば、いくつかのアートの展示の機会を見つけて、経験がないし自分のアートに自信がなかったけん応募していいかとても不安だったけど、とりあえずアートを持って行ってみたら、学内での展示が決まったこと。入寮して早々、"Barbenheimer"(バービーとオッペンハイマーを一緒にした面白画像(面白くないけど))のポスターを見つけて、核廃絶に関わってきた一人として嫌でしょうがなくて、それを寮のトップに伝えたら、すぐに取り外してもらえたこと。研究に行き詰まっていたとき、憧れの本の著者にメールしてみたら、奇跡的に返信があってzoomでお話しできたこと(すっぽかされかけたけど)。こういうちっちゃな自分のコンフォートゾーンを超える成功体験を積み重ねることで、自分の可能性を初めて信じられた。この感覚は、自分のこれからの人生が、順風満帆ではないことを覚悟しながらも、とても楽しみになる感覚につながっている。

「自分が〇〇してもいいのか?(その権利があるのか?)」という悩みは、その結果今はよくわからなくなった。この悩みの判断軸は、ぼやぼやした社会(世間)とか、他の人の目にある、形のないものだ。そして、何かに挑戦するとき、自分には挑戦する資格が足りないんじゃないかとか準備が足りないんじゃないかって感じてしまうけど、蓋を開けてみたらそういう資格的なものは意外と誰も満たしてないということも多い。例えば、アートの展示に参加するには誰もがすごいと思うアート作品が必要とか、過去に展示した経験が必要なんじゃないかとか。でも実際には、アートのクオリティそのものよりも、それを作り上げた経緯、パーソナルさやオリジナリティ、展示方法の面白さとかを評価してもらえた。自分がその機会に対してどれだけ適格かというのは、その運営者や審査員が判断する。挑戦するときに自分で考えるべきなのはむしろ、「自分は〇〇したいのか?」ということだ。それが判断軸になると、どんな結果になっても、結局は受け入れられる気がする。挑戦の機会が増えた分、もちろん不合格をもらったりNoと言われることも増えた。でも"At least I tried.(まあ少なくとも挑戦したもんな。)"という魔法の言葉を言うようになったら、驚くほどあっさり不合格も受け入れられることも同じように増えた。

このマインドセットが出来上がった理由は、悲しいかな、間違いなく日本を出たことと、今まで絶対的な価値判断の一つだった家族と物理的な距離を置いたことだ。あーあ、どんな状況でも自分の大事なこと大事って言いたいしそう生きたいんだけど、それがどうしても難しいのが日本だなと思う。きっと日本でもそう生きている人はたくさんいる。でも受ける向かい風の量と、追い風の量、そう生きる仲間の数があまりにも違う。アメリカの、かなりリベラルで守られた大学という環境で驚いたのは、共鳴できる人が驚くほどたくさんいるということだった。これは、私が幸せを感じる上でとても重要な条件だろう。

幸せは苦しみや悩みがあって初めて存在する

そして、幸せとは、悩みや苦しみの不在という意味ではないということも大事なポイントの一つだ。とある画家は、動画の中で絵のデモンストレーションをしているときに、絵の中で光を描くには、暗闇が必ず必要だと言っていた。それは幸せを感じることにおいても同じで、苦しみや制限、悩みがある中で、今あるものをはちきれんばかりに抱きしめるその姿勢と余裕に、幸せの風は吹き込む。だから、「幸せ?」と聞かれて、「幸せだ」と答えるのに、悩みが消え去ることを待つ必要はない。苦しみがあっても、いや、苦しみがあるからこそ、喜びを感じるためのコントラストが生まれ、それを感じていく連続的な瞬間と姿勢こそが、幸せなんじゃないか。 知らない人からの小さな優しさを感じること、花が綺麗だなって思って少し立ち止まって写真を撮ったり、香りを嗅いだりすること、通じ合える友達と空間と時間を共有すること。悩みと社会のスピードにかき消されて、「無駄」とされてしまいそうになるこういう瞬間こそが、私の中での幸せの源だ。

"幸せ"と"自信"はカルト?

最近まで仲の良かった友達とよく話していたこと。社会に蔓延る「常に幸せでいなきゃ」っていう感覚はほぼカルトなんじゃないか、と。これは特にアメリカに強い自信信仰にも通じる。自分に自信を持って!セルフラブ!みたいな聞こえのいい言葉は、同時に、そうなれない自分をそのままで受け入れるのを阻んだり、理想と現実がどんどん乖離していくのを止められなかったりする。自信を持つにあたって一般的な考え方、"Fake it till make it"は、パブリックスピーキングをする機会をもらうたびに私も実践していたんだけど、ちょっと危険だなとも思っていて。話している中で、どもったり混乱したり、聴衆の反応が気になったり。自分の中ではとても脆い状態になるんだけど、どうも自信がある風に振る舞うのが上手になっちゃったもんだから、その苦しみが通じない。人前に立つときにはそれでいいのかもしれないんだけど、終わった後恐ろしく疲れてしまって、部屋に戻って何時間も寝込んだり、次の日が使い物にならなかったりする。fakeするのは上手くなっても、そのこと自体が得意になったわけではないから、自分自身への評価や感覚と、他の人からの自分への感覚がどんどん乖離していく。私が好きなセレブであるセレーナ・ゴメスは、ファンからのイメージとセルフイメージの乖離が理由でメンタルヘルスの問題を抱えていたという記事を読んだことがある。幸せもそうだ。幸せそうに振る舞うことと、実際にそれを感じることは、必ずしも共存しないように感じる。SNSで、人前で、幸せなように、全部うまく行っているかのように振る舞わないと、っていうのが当たり前になると、ネガティブな部分を自分のなかに秘めてしまう。そして周りからのイメージと自分が実際に抱えている感覚のギャップが広がることは、とても孤独なことだ。

だから、私は常に幸せでいるべきとか、自信を持つべきっていう考えには真っ向から反対したいし、自分の周りの大事な人(自分も含め)には、幸せじゃない/自信がないという状態でいてもいいんだという余白を残しておきたい。"It's okay not to be okay(大丈夫じゃなくても大丈夫)"ってやつだ。寝不足な時もあるし、生理前も、失恋後も、ストレスMAXな時も、太陽が全然出ない冬も、なんでかわかんないけどすごい調子悪い時もある。そんなときにするべきことは、大丈夫なように振る舞うことではなくて、調子が悪いままでいることだ。

… って言いたいんだけど、特に仕事とか、いわゆる責任が伴うと、そう簡単には行かないんだろう、というのも経験上想像できる。でもさ、人間ってロボットちゃうけんね。調子悪い時に元気に振る舞うことほどしんどいものはないって思っちゃう。この資本主義の社会でどれだけお金を稼ぐ必要はあっても、人間らしくいられるような環境は同じくらい必要だし、自分の感覚をネグレクトし続けることは、ゆくゆくはメンタルヘルスの問題になって自分に返ってくる。

番外編:"How are you?"は質問じゃない

このインタビューシリーズがいろんな人に響くのは、多分アメリカのコミュニケーションの文化の癖が背景にある。例えばね、アメリカで知り合いに会ったり、カフェで注文したりすると、よく"How are you?"っていう。直訳すると「調子はどう?」という意味なんだけど、これ落とし穴があって、大体の場合、別に聞いてないんだよね、その人の調子なんて。これに気づくには少し時間がかかった。フレンドリーに接すること、あくまでそのフリをすることが当たり前すぎて、その言葉の意味通り受け取ると、取り残されるような気持ちになる。"unheard"という言葉がしっくりくる。自分の話をちゃんと聞いてもらっているという感覚は、英語で"I feel heard"と表現するんだけど、これは自分の放つ言葉や表現が相手に聞こえている、伝わっているという以上に、理解してもらっている、大事にしてもらっているというニュアンスも持つ。コミュニケーションが表面的なものになりがちなアメリカでは、意外とこの感覚を得るのは難しい。これはずっとアメリカ来てからいろんな人に言ってるんだけど、ここでは、Good talkerは多くとも、good listnerは少ない。主張してなんぼという文化からなのか。

私の通っていた小中高では、「傾聴」の重要さを耳にタコができるほどに聞かされたのを思い出す。だからか、こっちに来ても人の話を遮るくらいなら自分の言いたいことを我慢したり、その人の話が終わるまで待ったりしていた。そしたらとある日のディスカッションの授業中、教授から"You're patient.(あんた話を遮らないで待ってるの我慢づよいね)"と言われた。「自己主張が足りない日本人」という典型に当てはまるのが嫌で仕方なかったけど、必要な場合には自分の言いたいことを言う、でも相手の話はちゃんと聞く、このバランスは、自分が育ってきた文化へのリスペクトも込めて、大事にしたいと思った。

Are you happy? - 私の答え

"Yes, I am happy in the sense that despite and for all the difficulties that occur in my life and in society, I can appreciate the people and small things around me. For me, happiness is not the absence of worries and struggles. Rather, like water flowing without boundaries, happiness exists in the midst of sadness. Tears, to me, are not necessarily a sign of sadness, but also a sign of ultimate happiness. Just as light can only be expressed in a painting when there are shadows, the more I experience sadness, the more I also experience happiness. Therefore, I am happy only because I feel sadness with all my heart."

"はい、自分の人生や社会で起こるさまざまな困難にもかかわらず、また困難があるからこそ、周囲の人々や小さなことに感謝できるという意味で、私は幸せです。私にとって幸せとは、悩みや葛藤がないことではありません。むしろ、境界なく流れる水のように、悲しみの中にも幸せは存在すると思います。私にとって涙は、必ずしも悲しみのしるしではなく、究極の幸福のしるしでもあります。絵画に影があって初めて光が表現されるように、悲しみを経験すればするほど、幸せも経験することができる。
だから、悲しみを心から感じるからこそ、私は幸せだと言えます。"

2024年4月18日木曜日、
薄暗くなってきた空を見上げながら、図書館にて


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