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日常のステップ#9 電車とスピッツ

電車のスイミー

電車に乗ることは、他人と空間を共有することだ。良くも悪くも。

乗り換えの時も然り。
個人個人で動いているようだが、特に大きい駅の階段や乗り換え通路では、同じ方向に進む人たちが、スイミーの赤い魚たちのように一体となる。

突然逆走したり、横切ったりした人は、冷たい視線という名の制裁を受けることになる。

小学校とかでやった行進や集団行動って、もしかしたらターミナル駅の乗り換えのためにあったんじゃないかと思うことがある。
ある意味、東京のサバイバルスキルだ。

こぶしの攻撃力

駅で無意識に意外とやってしまうけど、けっこうやめてほしいことっていくつかある。

たとえば、傘を前後に振って歩くこと。特に上り階段で、柄の部分を持って後ろに振ると、傘の先端が後ろを歩く人の目に刺さりそうになる。
怖いのは、傘を持つ本人は、誰かの目を突き刺そうとしていることに気づいていないことだ。

こんな感じで周りの人には見えてるけど、本人は気づいていないことって、わりとあるなと思う。

今日もう一つ見つけた。
拳を握り、腕を振って歩く人だ。その素直で人間らしいモーション、まるでトトロのメイである、
背景が森ではなく、コンクリートの階段であることを除いては。

コンクリートジャングルでは、この拳も、傘の先端と同じ攻撃力を持ってしまうのだ。

上り階段にて、前を歩く人から、私のおでこすれすれまで来ては去ってゆく、この振り子のような拳にわたしは翻弄された。

静かに心に決めた。
シャカチキは振っても階段でこぶしは振るな!よいしょ〜
(※シャカチキ=マックのシャカシャカチキン)

スピッツ

帰り道のお供にスピッツを聴くのか、
スピッツのお供に帰り道があるのか。

もう答えがわからないほどの存在感である。
日が暮れた駅からの道を歩きながら考えた。

この少々やさぐれ感のある詩的な歌詞と、夜風に溶けていくようなメロディ。

なんとなく、スピッツは終わった恋に寄り添ってくれる気がする。

恋の始まりは、世界が鮮やかになっていく過程で、未来の漠然としたワクワクに満ちている。

逆に、終わる時には、その鮮やかな世界がどこかで解体され、それは一つのフェーズだったと、自分で認識する過程が訪れる。

それはすごく、心細いこと。
終わったのだと、自分できづき、受け入れることは、とても勇気のいること。

でもその過程を越えることで、恋をしてた時と同じくらい、ワクワクする新しい世界や自分に出会うことができる。

そう思えたのは、昨日川島小鳥写真展で出会った、スピッツの「プール」の歌詞を聴いていたからかもしれない。

「独りを忘れた世界」という歌詞が頭にこびりついていた。

恋の終わりには「ああ、また独りになってしまったな」と思う。

でも、この曲を聴くと、誰かと恋をし、つながりを感じて一緒にいた時、「独りだということを忘れることができていた」のかもしれないと、感じるのだ。

終わった恋にも、意味はある。
少しの間だけでも孤独を忘れさせてくれたのなら、それはとても、大事な時間だったのだ。

こう思えたら、終わってしまった恋も、その輝きや優しさを、心のスノードームにつめて、眺めてみたくなる。

今日も多摩川の夕焼けは綺麗だった。

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