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災害と繁栄 〜函館の歴史〜

函館の歴史は大火の歴史という人もいる。

明治時代というのは44年の歴史があるが、その明治だけでも19回も大きな火事、いわゆる大火にあっている。ほとんど2年に1回のペースだ。ようやく復興の兆しが見えた頃にまた大火に見舞われるというのを繰り返したのかもしれない。その当時の家というと今のように効率化された家ではないし、職人が一から作っていたから、家が1棟建つのも時間がかかったかもしれない。そうなるとようやく建て替えたらまた燃えるということもあっただろう。これによってかなり疲弊したことは予想に難くない。

前回に記述した、銀座通りにはRC3階建の家が建ち並んでいる。というのもどうにか大火を防ごうという戦いの証だ。3階建が欲しい訳ではないが、少しでも高さを出すことで裏側への類焼を防ごうと考えたのかもしれない。

旧市街地の西部地区には、緑地帯が目立つ。これは、今でいう緑化のため、というわけではなく、防風林として植えられたものだ。現在は景観としていい、という評価になっているが、そもそもは実用的な役割を担っていた。太古には、フランスのモン・サン・ミシェルのように函館山エリアは島のようになっていたらしい。海面の下降により陸続きになったが、細くくびれた陸地の両脇に海が広がると風は通り抜け放題だったことは予想がつく。一部埋め立てた場所もあるらしいから、今よりもっと細かったはずだ。海から海へ風は通り抜け、燃え出すと一気にその風が煽ることによって燃え広がった。焚き火に薪をくべるかの如く、火事に風が酸素を送り続けてしまったということだろう。それによって少しでも風を防ぐために防風林を整備していった。それが今では景観の美しさになっているのも皮肉というか幸いというか。

そんな大火にあい続けてきた函館。なのに関東以北の繁華街を擁していたりと発展もしてきている。これは当時の時代背景とかわかっていないが、純粋にすごいなと思った。2年に1回大火にあい、復興もしなければならないのにさらに栄えている。当時の函館市民は相当なバイタリティのある人たちだったのかもしれないし、建築への情熱は関東から派遣された人たちも一役買っていたのだろう。

そして、昭和9年の大火を最後に函館で、いわゆる大火は起きていない。なので、この昭和の大火後の昭和11年、12年頃の建物がまだまだ多く残っている。しかし、大火が起きなくなり、ほっとしたのも束の間。昭和16年には第二次世界大戦に突入している。江戸末期に箱館戦争が起こり、明治になったら大火に見舞われ、ようやく収まったら戦争に突入。この80年くらいは戦争と災害に悩まされ続けてきた。それなのに繁華街や遊郭も賑わっていた。この市民の力はすごいもんがあるな。

ついに昭和にまで時代が進んできたが、鎖国の終了から日露戦争や世界大戦と函館のシンボルの函館山は、要塞という役目柄、地図から長い間消されていたそうだ。世界三大夜景と言われ、今でこそ函館の観光で函館山に登らないことはないくらいだが、当時、入山は禁じられていた。それが、世界大戦が終了し、戦後復興の貧困の中でも明るい話題だったのが、函館山の一般公開だった。函館の経済を支えていた北洋漁業も戦争により大事な漁場であった樺太、千島を失い衰退の一途をたどり、斜陽都市という声も聞かれ始めていた。函館山は今まで入山を禁じられていたことにより、天然の自然が多く残ることになる。まさに怪我の功名となる。600種の植物と150種の野鳥がいるという天然ぶり。さらにその自然を上回る人気となったのが、函館山からの景色だった。くびれた山裾から扇形に広がる市街を俯瞰するのに最適で、夜景も素晴らしい。この恵まれた地理条件に驚かされ観光資源としての価値の高さを認識させられた。函館山の高さは333.8mとほぼ東京タワーと同じ高さで、気軽に登れる山なので、軽い運動として登山する地元の方も多い。昨今は夜景にばかりフォーカスが当たっているが、朝や昼もまた格別で、地形を楽しむなら日中が最高だろう。作家の井上靖が「全体の景色が日本で一番美しい」と言ったという記述もあった。

昭和32年に新日本百景を公募した際に函館山が全国一位で入選

と、一気に観光産業に舵を切るきっかけになった。昭和27年にポツダム体制がとかれ北洋漁業が再開し、国体出席する天皇皇后両陛下が函館に立ち寄られた際には一気にお祭りムードになったが、すぐに青函連絡船の洞爺丸が沈没という日本でも類をみない大事故もあり、紆余曲折がすごい昭和の前半だった。しかし、前述の通り、函館山が異様な盛り上がりを見せ、少し前の昭和29年に青函トンネルのボーリング調査も始まっており、期待がさらに高まっていった。昭和35年には函館空港も完成し、この頃から最大のピークへ向かう。昭和50年辺りは年間200万人の観光客が訪れていたらしい。

ただ、まあ近年の状況のように人口減が叫ばれるようになり、発展とは遠い状態が続いている。函館に元からいた市民は北へ北へ市街地が開発されるとそれに伴い、居住地を北側へ移していくという遊牧民のような経緯を辿っている。それとは逆に一度、函館から東京や海外、他の都市に刺激を求めていった元函館人が最近はかなり帰ってきている。それも一芸を提げて一回りも二回りも大きくなって帰ってきているので、とても面白い人材が多い。

まあ、函館の人じゃない自分は昔のことは知らんのやけど…。単なる想像で…。誰か函館でフィールドワークした文化人類学者いたら、教えて欲しい。

とまあ、そんな感じと全く函館にゆかりもないが、函館が気に入って移住してしまった人などなど、最近の出会いはおもろいことが多い。そんな人たちは決まって、函館山の麓エリアである西部地区に魅力を感じている。そりゃ、ここだけ昔の建物も残り、風情がダダ漏れだから外から函館を見たことがある人は興味を持つのは当然なのかもしれない。
函館の中にいるとただ古い昔の中心街という見方であまり興味を示さないようだ。

イギリス人はビッグベンに行かない問題

に近いのかもしれない。なので、この小さな街である函館で変な分断が起こっている。これはこれで面白いけど。もっともっとおもろい人入ってきて、変わった化学反応をこれからも見たいもんやな。

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