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冬賊

 ああ、ひもじいなあ。
 狐は空腹にぐうぐうと腹の虫が鳴るのを虚しく聞きながら、その虫を恥じるかのように腹を押さえて言った。
 見渡せば一面の銀世界。振り向けば北には峻険な剣のような山脈が聳え、西には獣でさえ入ることを恐れる暗くて深い森がある。そこには魔女と呼ばれるそれは恐ろしいニンゲンがいて、獣の皮を剝ぐことが趣味で、自身は内臓ばかりを喰らい、肉は飼い犬にやってしまうのだという。この犬というのがまた巨大なグレイハウンドで、一度捕捉されたが最後、逃げ出すことは叶わないのだという。南に行けば広大な水の原、海、と呼ばれるものがあるらしいが、狐は祖母の昔語りに聞いただけで、本当にあるかは知らなかった。東には何があるか誰も知らなかった。世界の果てがあると主張するものもいれば、ニンゲンが大量に生息する国というものがあるのだと唾を飛ばして主張するものもいた。
 それはさておき、とにかく腹が減っていた。
「どこかに食べ物が落ちていないかねえ。できれば手間のかからない、切り身の肉がいいなあ」と狐は耳をしょんぼりと垂らして嘆息した。
 おいおい狐くん、と兎は前足で口元を隠してくすくすと笑った。
「道端に切り身の肉が落ちているだなんて、馬鹿なニンゲンでもしない妄想だよ」
 雪の中に溶けてしまいそうなほど白い毛色の兎は、狐の半分ほどの背丈しかなかった。自分自身も数日食料を口にしていなくてひもじいだろうに、背筋はしゃんと伸び、堂々とした態度だった。
 狐はむっとしてひげをぴんと立て、口を尖らせたが、反論する意気もなく、ただ項垂れて再びため息をついた。
「幸せが逃げていくぜ、狐くん」
「そうだね。逃げられたら、追い駆けるほどの気力は僕にないものな。ああ! 切り身の肉」
 まだ肉のことを言ってら、と呆れて兎は肩を竦め、首を振った。
 見渡す限りの雪原の中には、狐と兎しかいなかった。
「僕には君が美味しそうな切り身の肉に見えるよ、兎くん」
 狐はとろんとした忘我の目で、よだれを雪の上にだらだらと零しながら前傾姿勢になり、言った。
 兎はさすがにぎょっとして、二、三歩後ずさると、前足を素早く突きつけ、「待ちたまえよ」と鋭い声で叫んだ。
「僕を食べることはお勧めできない。飢えのあまり今日の朝、毒草を食べてしまったから、僕を食べれば君も死んでしまう」
 狐は声を上げて笑って、「もう昼頃だぜ。君はぴんぴんしてるじゃないか」とにじり寄った。
 兎は冷静に、「話は最後まで聞きたまえ」と緊張しているのか、耳をひくひくとさせながらゆったりとした口調で言った。
「僕が食べた毒草はウサギカラシと言ってね。兎が食べれば辛味で舌をやられて、腹を下すくらいで済むが、狐はそうはいかない」
「なぜだい」
「別名を知ってるかい? キツネゴロシというのだよ。毒草に含まれるケラフォクという成分は兎にしか分解できないんだ。それ以外の生き物が摂取すると死に至る」
 狐は兎の説明にぶるると震えあがりながらも、怪訝そうに首を傾げた。
「なぜキツネゴロシなんだい。他にも生き物はたくさんいる中で、どうして狐の名前がつけられたのかな」
 兎は呆れたように額を押さえて天を仰ぎ、「やれやれ、だ!」と多少大仰に嘆息して見せた。
「君たち狐が、この地球の歴史上最も僕ら兎を食い殺してきたからじゃないか」
 なるほど、と狐も合点がいったのか頷く。「ウサギカラシを食べた兎を僕ら狐が食べたから」
 そうだよ、と兎は叫ぶ。「君もまた歴史の犠牲者の一匹に名を連ねるかい」
 狐は飛びずさって前後の足を抱えるようにしてまるで一個の大きな毛玉のようになって、怯えた目を兎に向けながら震えた。「そんなのはごめんだ」
 こほん、と兎は咳ばらいをして、剣山のように聳える北の山脈の方を差して狐に言う。
「北の山脈の麓には、まだニンゲンがしぶとく残っているらしい。山脈の向こうにはそりゃ食べきれないほどのニンゲンがうようよしているそうだよ」
 兎の言葉に、狐も元気を取り戻したのか、立ち上がって舌なめずりをしながら北の方を見やった。
 北の山脈には重い雲がかかっていた。山脈の頂点をすっぽり覆い隠すような大きく厚い雲だ。麓は吹雪だろうな、と狐と兎は顔を見合わせてほくそ笑んだ。
「そりゃいいな。ニンゲンの奴は、たとえ子どもだろうと食うところも多いし。できれば若い女がいい。脂ものっているし、何より脳みそがうまいんだ。若い女のあのとろんとした脳みその喉ごしと甘さ。ううん、考えるだけで堪らんね!」
 狐が陶然として言うのを、兎は冷笑して否定する。「君は本当のニンゲンという生き物の味わい方を知らないようだ」
「断然食うなら心臓だろう。それも若い男の強靭な心臓だ。女子どもや老人とは歯ごたえからして違う。ほどよい弾力があって、噛めば噛むほど滋味が溢れ出てくる。おまけに塩気は調味など必要ないほどいい塩梅ときている。ニンゲンの心臓に勝る食べ物はないね」
 兎は恥ずかしそうに口元をごしごしと擦ってよだれを拭いながらも、胸を張って主張した。
 狐と兎は互いに軽蔑するように嘲った。
 兎は突然目の前の雪原の雪をかき分け掘り始めると、ややあって埋もれていた兎の頭大の方形の石を掘り起こし、それを目の前に置いた。
「おいおい兎くん。そんな石どうするんだ」
 狐はぎょっとして目を丸くしながら訊ねた。
 兎は「こうするのさ」と高らかに声を上げると、石に飛び乗った。「これで君と目線が一緒だ」
 狐はほほうと息をもらした後で、何度も頷き、満面の笑みを浮かべた。
「うんうん。これはいいね! 我々は食料難にある同志だ。その立場は対等でなければならない。それがたとえ背丈という種の違いによるほんの小さな差異だったとしても、克服することは歓迎すべき素晴らしき一事だ。
 我々は狐と兎という種の違いを超えて論じなければならない。ここにもし熊の奴がいればと、僕は残念でならないよ、兎くん。あいつがいれば、ニンゲンなど取るに足らないただの肉塊だ。心強いことこの上ないのだが。残念ながら、熊の奴は冬眠中だ」
 論じながら、自分の考えと論じている自分の姿に、憧憬する偶像を見て、狐は陶酔してうっとりした目をしていた。
「しかしだな、兎くん。奴らとて一筋縄ではいくまい。数が揃えば厄介だ。この厳しい寒さで弱っているだろうとはいえ、それは飢えに苦しめられている我らとて同じ。知恵を絞らねば要らん犠牲を出すことになるよ」
 狐はもういっぱしの論客のつもりだった。飢えにしょんぼりとしていた枯草のような狐はもうおらず、理想に萌えて邁進する、この地には咲かない向日葵のような狐がいるのだった。
 狐は腕を組み、眉間にしわをよせてむむ、と唸った。兎はそれを横目で見て、おかしくて声を上げて笑いだしたくなるが、懸命にこらえていた。
 兎は笑いださないよう、心が落ち着くのを待って口を開く。
「飢えているのは奴らも同じだよ、狐くん。食料があればすぐに食いつくはずさ。それを餌におびき出せばいい」
 狐は、はははと兎の考えを笑って一蹴し、その浅慮を侮る色をありありと目に浮かべて兎を見た。
「いい作戦だな。だが、その食料はどこにあるんだ? 僕らだってひもじいのだぜ。それに食料があるなら、それを食べればいい。君の言っていることは本末転倒だぜ」
 馬鹿にしたように狐は鼻を鳴らした。
 なあに、と兎はそんな侮蔑の態度など歯牙にもかけていないというような鷹揚さで頷くと、満面の笑みを浮かべた。
「食料なら君の後ろにある。それを使えばいいじゃないか」
 え、と狐は怪訝そうに首を傾げながら振り向いた。
「ああ、すまない。後ろじゃなくてここだった」
 兎の声と一緒に衝撃が狐の頭を襲い、天地がひっくり返ったように揺れた。激しい痛みを感じ、意識が一瞬遠のきかけて、景色が上昇していく。いや、自分が落下しているのだと悟ったときにはもう視界はぼやけて定かでなくなり、やがて真っ暗になった。
 あの石、と狐が臍を嚙んだときにはすべてが手遅れだった。
 意識が途切れる寸前、兎の愉快そうな声が響いた。
「少ない狐を食べるくらいなら、それを餌に数も食いでもあるニンゲンを釣った方が利口だと思うのは、君も否定しないだろう。知恵者を自負するものほど、大勢を見た判断ができない上、単純な手に引っかかるものなのさ」
 狐は兎の勝利の宣言などどうでもよかった。後悔として彼の頭の中に残っていたのは、これでニンゲンの脳みそを食い損ねた、そのことだけだった。

〈了〉

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